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クローズアップ ホースマン達の勝負に懸ける熱き想い
0123年目の恩返し

田中学だからこそ特別な重みをもつ3164勝

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    田中学プロフィール

 昨年の勝ち鞍276勝は自己最多、兵庫県で4度目のリーディングを獲得し、
全国リーディングでも初めてトップの成績をおさめた田中学は、明けて1月3日、
3000勝の金字塔を打ち立てた。デビュー23年目を迎える今年、
残されたもうひとつの金字塔をめざして――父・田中道夫の背中を追いつづけた苦闘の日々を語る。

知らなかった3000勝達成の瞬間

 21年9ヶ月の歳月をかけ、18685レースという気の遠くなるような騎乗回数をこなして
勝ち獲った勲章――3000勝を達成するという行為は、一握りの騎手だけに許される偉業である。
昨年リーディングに輝いた田中学には、2014年から2015年にかけてこれ以上ない
充実した一年だったにちがいない。

 

 「最高の年」「出来すぎの一年」という言葉が聞けるかと思ったら、彼は「毎年同じことになるんですけど、
一年を通してケガなく乗れたことが大きかった」と、意外に喜びよりも安堵の言葉を口にした。
7年前のケガの影響が、いまも重くのしかかっているということだろうか。

 

 大きいケガをしてから競馬に対する考え方や意識の持ちようが変わった、と彼は言う。
「いままでは、人がケガしたら『よっしゃ!』みたいなね。人の離脱を喜ぶようなとこが
誰しもあると思うんですよ、この社会。でも、あれ以降は周りがケガをするのも見たくないし、
人が落馬したら鳥肌が立ったり…。事故の記憶がよみがえるんです」

 

 平成20年9月2日、学はレース中の落馬事故で腰椎を骨折、
一時は医師から『車椅子生活を覚悟してください』とまで言われる大ケガだった。
幸い復帰を果たしたが、そのときの精神的ダメージがいまも恐怖心として残っている。
9月2日は田中家の厄日になっていて「その日がすぎたら毎年、嫁さんと冗談っぽく
『今年はセーフやったね』と言い合ってます」。ケガなく無事に一年を終えることが、
彼には特別な意味があるということなのだ。

 

 昨年末の壮絶なデッドヒートは大晦日にまで及んだ。結果はわずか2勝差で競り勝ったわけだが、
そのリーディング争いのさなか3000勝が迫っていることを本人がまったく気が付かなかったらしい。
連日の激闘のせいで頭からすっぽり抜け落ちてしまっていたのだろう。
年が明け、1月3日の最終レースを1着でゴールしたとき、まっ先に駆け寄ってきた
木村健が「3000勝おめでとう!」と声をかけた。そのときになってようやく気がついた。
思わず「タケ(木村健)、ほんまか!?」と声が出た。
3000勝達成の瞬間を本人は知らなかったというからびっくりである。

 

サンバコールは、ぼくの先生

 3000勝までの道のりで、学がいつも中心に置いていた信条が「馬との出会いの大切さ」だった。
その想いが勝ち鞍を3000まで積み上げていったともいえる。

 

 「2歳の頃から育てて、一緒に競馬して、レースのたびに勉強させてくれる、
そういう馬との出会いが大事だと思う。ただ、どこの競馬場でもそうだと思うけど、
ポンと乗せ替えられたりしますからね。けど、幸運にもずっとパートナーであり続けて
重賞を獲れるまで乗せてもらえる、そういう馬と何頭出会えるか。
気持ちを奮い立たせてくれるのがそんな馬との出会いだとつくづく思いますね」

 

 彼の頭から離れないのがアラブのサンバコールだ。以前、彼はサンバコールについてこう語っている。
〈サンバコールに乗るときは、不思議と緊張しなかったですね、どんな重賞であっても。
馬がぼくに安心を与えてくれるんです。あの馬、ぼくの言うことを聞いてくれるし、
あの馬に出会って初めてレース中に会話ができるようになった。
2コーナーをまわったあたりで『そろそろ行こか』。言葉にだして喋りかける。
『さあ、行こか』って。そしたらピュッと反応する。ぼくを大きくしてくれたのはあの馬です。〉
(PR誌チャージ・平成20年4月号より)

 

 そのサンバコールは、当時剛腕で鳴らした平松徳彦騎手(現調教師)に乗り替わり、その後も活躍した。
学には悔しい思いだけが残ったが「この人(平松騎手)だけには負けたくない」という闘争心が
そのとき芽生えたという。馬によって騎手の転機がおとずれる。ひと皮むけた瞬間がそのときだった。

 

 「そういうことはみな経験していると思うんですけど、とくにあの馬には思い入れが強くて。
いろんなことを教えてくれた先生です」

 

 サンバコールに教えられた乗り方は、その後の彼の騎乗に好影響を与えている。

 

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