「ぼくは頑固で偏屈、昔かたぎの職人タイプやね。だから馬の育て方、鍛え方も基本に忠実でないと気にいらない。
基本を大事にするということでは人一倍こだわるね」
もう20年も前、随分と昔になるが森澤憲一郎元調教師に取材したときの師の発言である(平成7年発行『DASH』Vol.13)。
当時の兵庫県の勝ち鞍レコード(年間80勝)を挙げ、3度目のリーディングに輝いた直後だったが、
インタビューで憲一郎氏はこうも言っている。
「調教師の充実感というのは、自分の目で馬を選んで、じっくり育てて期待どおり走ったとき。
いまぼくがめざしているのは、理解のあるオーナーと一緒にいい馬を見つけて、それに夢を賭けること」
その言葉どおり憲一郎氏が追い求めた夢は、ヤングメドウ、エイランボーイ、をはじめ数多くのアラブ名馬を送り出し、
リーディングを獲得すること9回、生涯勝ち鞍1851勝(兵庫県歴代1位)という偉業となって結実した。
憲一郎氏が頑なに守り抜いた調教師スピリットが、長男である友貴調教師にどういうカタチで継承されているのか。
友貴師が厩舎を開業してちょうど10年がすぎた。厩務員時代から数えると馬との生活は20年を超える。
「自分がつねに厩舎にいて、1頭1頭の調子を把握するスタイルは引き継いでいます。
おやじは馬のことは人任せにできない質(たち)で、60歳をすぎたころまで自分で攻め馬をこなしていました。
そういう姿を見てきましたから、ぼくの中にもそれが基本にあります」
自ら馬にまたがり、馬の状態をたしかめながら調教するやり方は、友貴師も開業以来同じスタイルを崩していない。
「馬の調子は乗った人間が一番よくわかる」という父親の教えもあったのだろうが、
それより何より、性格的に自分で確かめないと気が済まないのだ。
馬房のにおいを嗅ぎ、馬と親しむ生活のなかで友貴師は育った。父親の方針で、小学生の頃から朝は
馬房の掃除を手伝ってから登校した。そんな環境が少年の未来に影響を与えないわけがない。
馬の手入れを間近で見ているうち、愛着のある馬もでき可愛がるようになる。
こうして友貴師と馬との蜜月関係は育まれていった。森澤厩舎の厩務員として修業がスタートしたのは19歳のとき。
「調教のスタイルだとか餌のやり方はおやじのもとで勉強させてもらったんですが、将来開業したらあれをやってみたい、
これもやりたいといろいろ考えていました。だから、スタイルとしてはおやじのやり方と違っていることもあると思います。
そのなかで試行錯誤しながらいろいろ試しています。」
装蹄師だった友貴師の祖父も、仕事にかけては一徹な人だったようで「人間のことより馬のことを先にしろ」と、
憲一郎氏を叱ったという。自分流を押し通す頑固さは、どうやら森澤家のDNAのようだ。
厩舎が現在かかえている一番の課題は「馬集め」だという。
管理馬は現在23頭だが、ランキング上位の厩舎のなかには30頭以上を有しているところもあり、
持ち駒の差は即ち年間成績の差となってはね返ってくる。
頭数不足を埋めるために友貴師は不得意な営業面に力を入れざるを得ない状況がつづいている。
「現実にいま空き馬房もあるので頑張らないといけないと思っています。
これまでは営業に力を入れなくても自然といい馬が集まっていました。言ってみればラクしてたんです。
おやじの頃はアラブ中心の時代でしたから現在のようにJRAから大挙して転入馬が来るようなことはなかったんですが、
いまは確実に状況が変化しています」
JRAの転入馬がふえたことで、本来の調教師としての仕事の醍醐味が薄れたの事実だろう。
また成績の面でも、優秀な転入馬が多ければ容易に勝ち星の計算が立つ。JRAからの転入馬は1ヶ月足らずで
いい状態でレースに出走することが可能で、馬に能力があれば苦労せずに勝ち鞍が稼げるのだ。
「それに甘んじていいのかと危機感はありつつも、でも現実はそういう状況のなかでやっていかなければなりません」と
友貴師はジレンマを感じている。
転入馬は、中央で未勝利戦を勝てなかった馬を一時的に転入させ、園田2勝3勝し条件を満たしたあと、
また古巣に戻ってしまうのである。そうした環境の変化がある以上、それに対しての適応の能力を身につけなければ
厩舎運営はむずかしい。「おやじは現役生活2年残して引退したんですが、65歳までつづけなかった理由の一つは、
そういう状況に面白味が感じられなくなったからだと思います」
転入馬が重なる時期は馬房のキャパシティを超えることがある。一方、転入馬不在のときには空き馬房ができている。
ちょうどいまがその時期(取材した6月)で、従って頭数不足を埋めるための営業活動が大事なのだ。