これまでの人生で出会ったことのない馬
2010年8月3日のデビュー戦以来、無傷の連勝街道(10連勝)を突っ走り、
南関東(黒潮盃・大井、報知オールスターC・川崎)、東海(岐阜金賞・笠松)の重賞をも制覇。
“兵庫の看板馬”として“兵庫の宝物”として王道を快走した傑出馬がオオエライジンである。
ところが、兵庫県競馬に激震が走った4歳の暮れの大井への電撃移籍。
そして、南関東移籍後の初戦を前に、鼻出血を発症。結局、南関東では一走もせずに
兵庫に戻ってくることに。そして、この度の悲劇…。
栄光と波乱に満ちた彼のレース人生。デビューまでの道のりもまた、
けっして平坦なものではなかった。ひ弱さと神経質な面が目立った入厩当時、
競走馬としては欠陥だらけの不安なスタートであったことは間違いない。
オオエライジンを見いだし、最強馬に育てあげた橋本忠男調教師は、彼との出会いをこう振り返る。
「最初に見つけたのは1歳の10月でした。そのときの印象では、これ、競走馬になるかなと…
コロッとはしてるけど線が細い、すぐに飛びつきたくなるという印象はなかったですね。
トモの運びも力がなくて、言ってみたら人が酔っぱらって歩くようなね、
そんな感じの馬でした(笑)。それから12月に行って、次が2月かな…。
時間をおいて見たときに12月と2月を比べてみても、
トモの力強さがだんだんと変わってきて体型自体も変化が見られたんです。
その2月に見たときからですかね、ひょっとしたら…という感じになったのは。
いや、走るなというのじゃなくって、やっと競馬できるかなという程度で。
最終的に決めたのは5月のセール。その札幌のセールのとき、
他のお客さんには目立たない内側を走ってたんです。でも、ぼくにはハッキリと見えました。
最後のゴール前のひと叩きでグーンと頭を下げたのが。だいたいあの馬、頭が高い。
それが1ハロンぐらいの追い切りやったらグーンと頭が下がる。おい、これエエやん!」
京都府福知山市の北部、加佐郡大江町。オーナーの出身地に所有馬はすべてオオエを冠している。
源頼光の鬼退治伝説で有名な酒呑童子が棲んでいたという説のある、あの大江山。
その頂上から鳴り響く雷神(光の神)の化身のように、彼の走りは輝きを放ちはじめる。
ちなみに市場取引価格は546万円だった。
「あの馬は、ぼくの夢をずっと叶えてくれていたからね。大井の黒潮盃も勝ったし。
ぼくの夢としては、あっちにもこっちにも行きたい、これもやりたいあれもやりたいというのはありましたよ、
もちろん。でもとりあえずは、この馬が丈夫で競馬をしていければ、
そのへんは到達できると、そう思わせる馬だった」
「大井に移籍してぼくの手を離れたけど、いろいろ無理してるなという情報は入ってきてました。
まぁ、それはね、移籍した馬なんやから仕方がないと。でもそのあと、よく再起してくれたよね。
(再び兵庫に戻ったときに管理した)寺嶋君はようやったと思う。
ホント、嬉しかった。園田に戻ってからあれだけ重賞を勝たせて、他場へもチャレンジした。
ぼくの想いはそのままのカタチで伝わっていたからね、それだけに亡くなったのが残念…。
事故のあと、すぐに大井にいる(以前、園田にいた)若い衆から電話があった。
「いま薬殺されました…」と。そのとき思ったのは手元からカタチが全部消えた、
カタチがなくなってしまったという無念の想いやった…。今後、またあんな馬が出てくるかもわからんよ。
わからんけども、あれだけの馬はぼくのこれまでの人生のなかで出会ったことのない馬、
これはハッキリ言い切れる。それにやっぱりね、自分が見つけて探し出した馬というのはね…。
オーナーさんが持ってきて「この馬やってな」と言って預けてくれる馬がなんぼ走ったとしても、
自分で探して、追いかけて、見つけて…その馬が見るたびに良うなってくる、
そういう馬とは思い入れが違う。そういう縁(えにし)を感じるよね」
彼が命を懸けて教えてくれたこと
「オオエライジンは、ぼくの師匠だった」と公言してはばからないのが、
当時調教師補佐だった橋本忠明(現調教師)である。
「教えられることは多かったですね。馬は喋らないじゃないですか。
レースに向けて人間が調整してるわけですけど、実際それが合ってるかどうかわからない。
追い切りとかカイバとかでレースが近いことを教えるんですけど、あの馬は自分でレースの日をわかってるんですよ。
ぼくらは慌てていろいろするんですけど、馬のほうが知ってるから、
これで良かったのかなと思いながらレースに行くと、ぶっちぎって勝つ。
ああ、ぼくらの仕事は間違ってなかったと、あの馬が教えてくれるんです。そんなことは初めてでしたね」
「馬を仕上げるのは、言ってみれば簡単。それを調整するというのが難しいんです。
例えばレースまで中3日で追い切る。みんな中3日で追い切るわけです。
そういうふうに馬を仕上げていくというのは多分1年ぐらい厩務員をしていれば出来るんですけど、
そこからの調整がね。レースに向けてピークに持っていけるかどうか。
だいたい通り過ぎたり、足りなかったりで…。
ところが、あの馬は自分で調整することができた。微調整ができたんです。
他のオープン馬にもいろいろ教えられましたけど、走る馬から教えられることがいっぱいあります」
「移籍のときもショックでしたけど、もういないというのが…。
引退してもずっと見守りつづけていきたい馬だっただけに喪失感は大きいです。
ホント、あの馬は最初から家族やと思って接していたので…。
名馬といわれる馬は園田にもいろいろいたと思いますけど。いろんな意味において、
いままでで一番の名馬じゃないですか。あの馬が命を懸けて教えてくれたことを財産にして、
これからの馬に活かしていきたいです」