装鞍所の管理者である稲葉収氏がマコーリーの最後を語る。
「亡くなった日の朝、よう起きなかったんです。ぼくら集まって介抱したんですけど、
起きることができなかった。女の子たちが一所懸命さすったりいろいろしてね。
やっぱり本人もわかってますから、立とうと何回も試みるんです。
だけど脚がシビれてたんでしょうね、長いこと寝たままでしたから。
床擦れもひどかったし…というのは、つねに身体の左側を下にして寝てたもんですから、
それを起こして右側を下にしようとしたんですけど…。
バナナを食べさせたり、ポカリスウェットをボウルに入れて飲ませたり。
のどが渇いてたんでしょう、いっぱい飲みました。最後は安らかに…ホントに安らかな顔してました。
いい死に顔でしたよ」
誘導員として7年間ともに過ごした七瀬まゆみさんの思い出。
「毎年、わたし1月1日にここ(装鞍所)に入ってたので、一緒に初日の出を見るのが習わしに
なってました。曳き馬しながら『今年も新年迎えられたね』って話しかけて、
いっしょに新年を祝ってました
まわりの人からは穏やかな性格の馬だったと言われますけど、それだけではないんです。
自分というものを、自我をしっかり持ってる馬で結構ガンコやったと思います。
ひらひらしたものがダメなんですよ。鞍合羽とかスーパーのレジ袋。
あれが風で舞い上がったときは、もう大変でした。本場馬から走って帰ったりして。
若いときはパワーがあったんで止めきれなくて困りました。
コスト削減で誘導馬が廃止されるという話があったときは、ファンの人たちの後押しがあったり
騎手会や馬主協会からもお願いしてくださって。
それがなければ誘導馬は多分なくなってましたね。おくる言葉は“ありがとう”それしかないです」
誘導員の村島奈保子さんの思い出。
「外見はホント穏やかに見える。でも、静かにガンコ。頭のいい子だったと思います。
誘導馬それぞれに個性がありますので比較するのはむずかしいですけど、マコーリーに関しては
おとなしくていい子に見えますね。だけど上手にオンとオフを使い分けてました。
本当のプロ。だてに長生きはしてません。
開催日のときは毎朝パドックにお散歩に行くのが日課でした。
お客さまが入場される前にパドックまでお散歩に行くんです。
するとパドックにいるお姉さんがニンジンを切って、アメを2個用意して待っててくださってる。
最初にニンジンをもらって、最後の仕上げにアメを2個もらって『じゃあ、またあしたね!』って
帰る。マコーリーにとって、あれが生涯で一番の楽しみだったんじゃないかなと思うぐらい。
行くときはもうブンブンして…途中からは舌なめずりのおいしいお口になって。
1個目のアメでは帰らない、2個食べてから帰るんです。
そのたんのモデルはそもそもマコーリーでしたし、きっと人を惹きつける魅力があったんだと
思います。イベントでは連れていくと、ファンの方々のすごく熱い想いを感じてびっくりしました
『会えただけでうれしい』って皆さんおっしゃってましたね」
誘導員の大當紗也華さんの思い出。
「あの日は、ずっと付き添ってました。死なせたくないからなんとしても立ってほしかったんです。ジィちゃんもまだ死にたくないから、立ち上がりたくて頑張ってたんですけど、脚に力が入らなくて。本人は何度も何度も立ち上がろうとして頑張ってたんですよ。
目は開いてたし意識もしっかりしてました。普段と変わらない表情なんですけど、
いつもなら起きれるのになんで立てないんやろ、みたいな感じだった。見てるとつらくて。
みんなでロープ使ったりして起こそうとしたんですけどダメでした。
一番の思い出は引退式をいっしょにやらせてもらったことです。見た目は元気だったし、
しっかり歩いてたんでファンの人たちから『なんで引退すんの!』『やめんといてくれ!』って
声がかかった。ジィちゃんはすごい人気者やったから、ある面、園田を支えてた馬だったように
感じます。誘導馬業務をつづけられるのもジィちゃんのおかげですし、存在は大きかった。
おじいちゃん馬やけど元気に頑張ってる姿が、ファンの人たちの心に響いたんだと思います。
顔も可愛かったですし、姿かたちも魅力的だったんで女性ファンも多かったですね。
本当に園田のアイドルでした」
――心に刻まれる名馬、思い出の競走馬は多いけれど、誘導馬というポジションで、
きらめく異彩を放ったマコーリーという馬は、みんなの心にいつまでも残る遺産(レガシー)になった。