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クローズアップ ホースマン達の勝負に懸ける熱き想い

座談会「さらば、平成」

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平成元年~5年 田中時代から小牧時代へ

竹之上 きょうは「平成を振り返る」をテーマにお話していただきたいと思います。
    時系列に沿って進めていきますと、まず平成元年、
    田中道夫さんが「ワールドスーパージョッキーズシリーズ」に地方競馬代表として
    出場し総合2位になった。
    この輝かしい偉業でもって平成がスタートしたわけですが、
    三野さん、そのときの様子はどうだったですか?
 
三野  当時、地方競馬の騎手がJRAに行くということはああいう機会がないかぎりなかった。
    いまのように交流レースもなかったしね。
    で、園田に帰ってきて騎手全員を招いて祝勝会を開いてくれた。
 
北防  出場する前に壮行会も開いたよね。
 
三野  JRAに乗りにいくというのが珍しい時代やったから壮行会をやり、
    結果総合2位になったわでみんな大喜び。祝勝会でドンチャン騒ぎやったね。
 
北防  壮行会とか祝勝会とかいかにも昭和っぽいよね(笑)
 
竹之上 このころは田中道夫時代がずっとつづいていて…
    太さん(小牧太)がリーディングを獲ったのが平成4年なんです。
    道夫さんから太さんに変わってゆくこの時代、騎手の立場でどう見てました?
 
三野  あのころは田中さん、寺嶋さん、花村さんが
    ゴールデンジョッキーのトリオ全盛の時代。
    そのつぎの世代に平松、尾原、ぼくなどがいた。
    この3人が全日本アラブ優駿(楠賞)で1着2着3着を占めた。
    ああ、ぼくらの世代が新三羽烏になるなといわれたことがあったんや。
    そやのに誰もリーディングを獲らずに、太が俺らの上を踏み越えていった(笑)
 
竹之上 タケちゃん(木村健)はデビュー前やったから当時のことは知らない?
 
木村  ぼくの世代やとどうしても岩田さんのほうが印象が強いですね。
    当時はまだ騎手学校にいってたか実習中だったんじゃないですかね。
    デビューしてからはもちろん(道夫さんと)一緒に乗ったことはありますよ。
    でも全盛期は知らないです。
 
竹之上 太さんが出てきて、三野さんとしては時代の流れに取り残されたという思いが…。
 
三野  3人ともスカ喰ろたなあ(笑)
 
北防  あのころの太を見てて、やっぱり勢いは凄かった。
 
竹之上 太さんがリーディングを獲った翌年(平成5年)にタケちゃんがデビューして、
    この年サンテレビの「競馬ダイジェスト」がスタートした。
    それを機に競馬の認知度が高まっていったと思いますが…。
 
北防  昼間の中継は週イチで流れてたからね。
    さらに夜の11時45分から「競馬ダイジェスト」がはじまったことで
    徐々に浸透していったかもしれんね。
 

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平成6年~11年 阪神淡路大震災・サラ導入

竹之上 2年後の平成7年に阪神淡路大震災が起こったたわけですが…。
 
木村  ぼくはあのとき西脇所属やったんです。
 
北防  ぼくも西脇におったんやけど、三野ちゃんは園田にいてどうやった?
 
三野  ちょうど調教中でね、追い切りにいこうとした瞬間やった。
    ぼくは馬に乗ってるからずっと揺れてんねん。
    地面が揺れてるのがわからない。
    2頭併せ馬で、さあ、3コーナーにいこうと思ったとき
    馬場を照らす照明がバーンと消えて真っ暗になった。
    消えたから「なんや、なんや!」となって。
    その瞬間、まわりで稲光りが走った。
 
木村  ぼくはまったく分からなかったです。
    馬に乗ってた時間帯で、馬場の隅に倉庫みたいなのがあって、
    ガタガタと音を立てたから誰か閉じ込められてるのかなと(笑)
 
北防  調教を見てるときやったからね。
    誰かがストーブを蹴ったんかなと。
    まさかあんな大変な状況になってるとは思わなかった。
 
竹之上 震災の影響で3月30日までの38日間開催が中止になった。
    その間、競馬場はいろんな支援活動につとめました。
 
三野  再開のメドはなかったけど、本馬場では調教はずっとやれてたからね。
 
木村  西脇はさほど影響なく調教できとったね。
 
竹之上 北防さん、競馬キンキも大変やったでしょ。
 
北防  (活版印刷の)活字が全部落ちてしもたからね。
    それを全部拾って一からやり直し。
    それが落ち着いてからディズニーランドへ行かせてもらいました(笑)
 
三野  ディズニーランドに行けたように競馬開催がなくても当時はまだ景気がよかったから、
    みんなある程度の余裕があったんや。
    だから、心配しながらもまわりの世話を焼きながら調教師会も騎手会も寄付できた。
    トラック3台4台分の物資を届けにまわったね。
 
竹之上 震災の翌年に厩舎団地が完成して、
    それまでの古いアパート群が新しく生まれ変わった。
    さらに翌平成9年に神戸場外、ウインズ神戸B館での発売がはじまった。
    これは売上げ面で大きな出来事ですね。
 
三野  そこは先人の組合の人がJRAの窓口を借りて売上げに寄与した。
    偉かったと思います。
 
北防  ネット販売のなかったころやからね、
    当時としては重要な拠点となった。
    ここがひとつの転機になってるよね。
 

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竹之上 この年の10月にアナウンサーデビューしたのが竹之上次男でして…(笑)。
    ちなみに最初の実況レースで勝ったのが長南和宏騎手(現調教師)でした。
    万馬券でむちゃくちゃ荒れました。
    それはさておき、この年に馬連が発売開始になった。
    それまで枠連だけやったから予想も変わってきたんじゃないですか。
 
北防  そうやね。枠連のときは、まあ、2頭のうちどっちでもいいわけやけど、
    馬連になるとシビアな予想が要求される。
 
竹之上 で、同じ年の4月に自動発売機が導入されました。
    その2年前の平成7年に自動払戻機が導入されてる。
    それまでは払戻しは人の手から受け取ってたんですね。
    いまは機械が当たり前やと思ってることが、ほんの20数年前まではそうだった。
    平成になって一気に競馬が変化したという感じですね。
    平成11年には園田競馬場の馬場改修工事が終わって新コースでのレースがはじまりました。
    のちにサラブレッドが導入されるための新設だったわけですけれど、
    馬場的には走りやすくなったの?
 
木村  820mのレースがちょっと変な感じやったね。
    向正面のラチが外を向いて出てる感じで、スタートして、これ、出遅れられへんなと。
 
三野  馬場の途中になんでふくらみがあるんやと。
    最初のころは乗りにくかったよな。
 
竹之上 この年の6月、サラブレッドが導入されました。

 

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