田中一巧調教師は昨年12月6日に開業、
初出走を果たしたばかりのピカピカの1年生トレーナーである。
父親は過去二度のリーディングに輝き、
昨年は兵庫県の最多勝利記録更新という金字塔を打ち立てた
田中範雄調教師であり、祖父もまた往年の園田競馬で活躍した田中義治師。
競馬一家の血筋をひく三代目である。
その12月6日の初戦、ご存じの方も多いと思うが、
ホクセツプリンス(5番人気)で初出走初勝利の快挙を
遂げ周囲を驚かせた。というより一番驚いたのは当の本人で
「頭の中が真っ白でパニくった状態」だったという。
レース前「開業初戦のレース、なんとしても勝ちたい」と
強い意気込みでのぞんだ鞍上・田村直也騎手が、
1着ゴールしたあと歓喜のあまり号泣するひと幕もあった。
「開業時の目標はとりあえず1勝あげること。最初のレースで
1勝できたので気持ちを切り替えようと思った。
だから、勝つことよりきっちり馬を仕上げていこうという意識で
その後は冷静にのぞめました」
大晦日まで11戦して5勝をあげ、勝率4割5分を超える好成績。
強運と勢いを味方に、今年に入っても14戦4勝(1月25日現在)と
順調な滑りだしをみせている。
これだけ幸先のよいスタートを切った厩舎も珍しい。
いまの状況はデキすぎ、と一巧師自身も自覚している。
「怖かったですね。こんなにうまいこといきすぎていいのかなと。
で、これが止まったときが怖いな…ずっとそれを思いながらいまもやってます」
開業するにあたって厩舎運営に関するビジョンというものは
とくに考えなかったという。
親方のサポートもあり、範雄厩舎の管理馬(ホクセツプリンス、
マイフォルテ、ダイリンエンドなど数頭)を譲り受けてのスタートだった。
その範雄厩舎も、優秀な馬が抜けたにもかかわらず、いま絶好調なのである。
息子の活躍に俄然、火がついたのか。
「65を迎えようとしている齢で急にスイッチが入ったようです」と、
父親のヤル気にあきれ驚いている。
息子には負けられない範雄師の意地というのは、
肉親を超えた勝負師の本能みたいなものなのかもしれない。
競馬社会に飛びこんだのはハタチをすぎてから。
範雄厩舎で馬のいろはを学んだ。
もともと幼少期は西脇で暮らしていたが、
小学3年のとき両親の離婚で龍野(現たつの市)に移る。
十代の多感な時期を母方の里ですごした。勉強がきらいで、
やんちゃな思春期を送っていたらしい。
ところが、競馬と無縁の生活もハタチになって一変する。
母親が亡くなったことで父親のもとに戻ることになったのである。
「オカンが亡くなって嫌でもこっちに帰らざるを得なくなって…」。
父親の家業を手伝うより仕方がなかった。
馬の世話をすることに抵抗があったようだが、
担当する馬がレースで勝ったときは、ああ、面白いなと感じたという。
下積み生活は長くつづいた。そもそもが仕方なくはじめた仕事。
身が入らないのも当然で、父親に言われるまま調教補佐の試験を受けるが、
そのたび撥ねつけられる。
「いやいや試験を受けてましたけど、
近くに橋本くん(忠明師)がいたので助けられました。
彼の存在は大きかったですね」と一巧師は言う。
忠明師と接しているうちに、自分も同じ立場であることを
感じはじめるようになる。
競馬社会における大事な家系を守り、受け継ぐ立場だと自覚し、
その宿命に身を投じた。
そう思いだしてからは迷いは吹っきれたようだ。
厩務員から調教補佐時代までをさらっと記したが、
そのあいだの8年間は人並み以上にもがき苦しんだ、と
一巧師は胸の内を語る。
それは「早く一人前の番頭になれ」と願う
父親の厳しさゆえの受難だった。
獅子がわが子を谷に突き落とし試練を与えるように、
範雄師は厳しく鍛えた。