父親の影響を受け、
中塚師は中学に上がるころにはいっぱしの厩務員よろしく、
調教をこなしていたという。
「昔は中学生でもおおっぴらに調教ができた、そんな時代でした。
親父に仕込まれ門前の小僧やったから馬は乗れたんです」。
競馬人気が高まっていたサラリーマン時代、
会社の給料より「バイトで朝ちょこっと調教して、
1頭なんぼで請け負う」そっちのほうが実入りはよかったらしい。
もともと馬は好きだし、競馬上向きの時代で収入もいい。
中塚師が園田に戻ったのは22歳のころだった。
28歳で調教助手、34歳で調教師試験に合格するが、
免許取得から開業までの4年間、
厩舎に空きがでるまで待たされることになる。
「昔は3、4年待つのがざらでね。
調教師になってもみんな生活は苦しかったですよ」。
奥さんはパートに、中塚師も他厩舎の馬の調教を請け負ったり。
苦しい時期を経験している。
園田には二代目調教師の集う場がある。
名付けて”あほぼんの会”。
シャレのきいたネーミングがおもしろい。
現在いる調教師のうち30人ほどが二代目で、
年に一度、集まる機会を設けている。
「二代目連中に言うてるのは、
園田競馬のお陰でわれわれはメシが食えたんや。
なんとかみんなで維持して恩返しすべきやと」
そろそろ老齢にさしかかるあほぼんたちを前に、
自らを鼓舞するように中塚師は喝をいれる。
今年68歳になった。
楽天的で物事をポジティヴにとらえ、
誰とでも気さくに話せるフランクな人柄。
と同時に組織をたばねる統率力に長けた苦労人でもある。
「32年間、貫き通した信念は?」などと真っ向から質問しても、
この人にははぐらかされてしまう。
ただ「ぼくは来る者は拒まず去る者は追わずというポリシーでやってきた」
という言葉に中塚師の資質が感じられておもしろかった。
「来る者はすべて受けいれてますし、
預かった以上は面倒をみて、励ましてきました。
で、一度辞めた者が戻ってきたいといっても、それはダメ。
覚悟して出ていったんやから、そこで辛抱しろと」
「競馬社会に入ってきた以上は調教師をめざせ、といつも言ってます。
チャンスがあれば挑戦してみろと」
厳しさと包容力がスタッフ育成の信条のようだ。
会長職を引き受けたとき、自らを戒めたことがある。
我田引水だけはやらない、ということだった。
「役職を利用するようではダメです。
会長になったらクリーンでないと絶対あかん。
誤解を招くようなことは厳に慎む。
その姿勢で3期6年やってきたつもりです」。
4期目を引き受けた今回、総会の場で
「長期政権は腐敗を招くぞ」と釘をさした。
つぎの会長候補を探しておいてくれよ、と暗に調教師会に要望したのである。
重賞制覇は地元で4回、他地区1回。
合計5回のうち4回はエンタノメガミで獲っている。
「あの馬はトレーニングセールで買うた馬でね、
最初は手がつけられんくらいの馬やったけど、思い入れは強いね」
思い出に残る馬はもう1頭。
カルストンペースオという馬。
「正一(川原騎手)と全国をまわったんや。
新潟、中京、小倉と交流レースでね。
中京では5着来たんかな。
園田ではパッとせんかったけど、でもあの馬にはいい思い出がある」
中塚師は、自分は馬運がいいと言う。
人にも恵まれていると言う。
「まわりの人間が押し上げてくれた。自分は何もしない(笑)。
人に嫌われたらあかん。大事なのは人の話を聞く姿勢やね。
若い調教師の話も、ぼくは真剣に聞きます。
それで相手の考え方を否定はしない」
人間を観察し、話に耳を傾け、相手に対して気くばり、
配慮を忘れない。
まわりから押し上げられる人物とはそういうものだろう。
昨年手術した大腸ガンの話やこれまでの失敗談をおもしろおかしく語り、
大いに笑わせてもらった。
そんなところに中塚師のサービス精神と度量を感じた。
妻の加代子さんからは
「辞めて何すんのよ。悔いが残らないようやりつづけて」と言われている。
厩舎に預けてくれる馬主がいるかぎりは辞めないつもりだ。
「馬主さんがいなくなったら辞めなさい。
預けてくれるあいだは頑張りなさい。
うちの社長のお達しです(笑)」
最後に、クイズの答え。
通算1000勝を超えた歴代調教師は田中範雄師をトップに、
中塚師で10人目となる。
うち現役は田中範雄師(1887勝)、田中道夫師(1075勝)、
中塚師(1002勝)の3人のみ(通算勝利数は5月17日現在)。
園田レジェンドへの道は遠く、険しい。