開業7年目にして初のリーディングトレーナーを獲得した飯田調教師、
デビュー17年目で初のリーディングジョッキーに登りつめた吉村騎手。
“初づくし”のふたりに登場願った。
3年連続100勝超えの実績を積みあげ王座を守ってきた新子厩舎を討ちまかすことは可能か。
可能だとすれば、どの厩舎なのか。
長期政権がつづくかと思えたその鉄壁の牙城を崩したのが飯田師であった。
開業が同期(2012年)の新子師を「乗り越えることのできない高い壁だった」と
飯田師は表現する。
「調教技術も管理馬の質もそうですけど、そういう厩舎に立ち向かえるとは
到底考えてなかったんです。
目の前の1勝を追いかけてガムシャラにやってたとき…6月ぐらいですかね、
なにか(自厩舎が)すごい勝ってるなと思って。
そのころから意識しだしたということはありますね」
その時点でトップを走っていたのは森澤厩舎、それを追いかけるカタチがつづいた。
「新子くんところがいつもよりスローなスタートやなと感じてた。
ひょっとしたらみたいな気持はありましたけど、まさか最後までもつれるとは思わなかった。
ラッキーとしか言いようがないですね」
6月7月と好調をキープしていた飯田厩舎は森澤厩舎を抜き、
新子厩舎といったんは15勝ほどの差がついた。
そのころ「今年獲らなかったら、もう今後獲れる可能性はないと思いますよ」と
吉村は言いつづけていたという。
終盤、新子陣営の猛追をうけ追いつかれ、逆転されたのが12月。
そこから再度逆転し、最終勝ち鞍は104勝(2位の新子厩舎に3勝差)。
レースにたとえるなら、直線の激しい叩き合いをきわどい着差で制した劇的な勝利だ。
「年末は力を出しきった」と飯田師が言うように、両陣営の死力を尽くし闘いだった。
フォローするように吉村が言う。
「ホント、出しきりましたよ。馬がよく応えてくれましたしね。
ふだん出おくれる馬がスーッと飛びだしてハナ切っちゃったというのがありましたしね。
そういうふうに仕上げてきてくれたスタッフの力じゃないですか」
勝ち鞍の数でリーディングが決まるわけだから、
勝ち鞍を稼ぐための戦略があって当然である。
勝ち鞍を意識して、相手関係を見ながら勝てそうなレースを選んで出走するという手法。
飯田師がとった戦法がそれだった。
なにも昨年に限ったことではなく、
長年つづけてきた彼流の”目の前の1勝にこだわる”やり方である。
「番組選びは、ぼくはすごい気をつけてやってます。
そのへんは従来のやり方とはちがうトリッキーな部分なのかなと思う。
去年でいえば、相手関係というか噛み合いというか…
こんなにうまくいくことはそうそうないと思ってました。
連勝するような馬も結構いてくれて…」
慎重に番組を選び、同じ条件のもとでできるだけ勝ちに近づけるメンバーを
選んで出走させたこと。結果、それがうまく噛み合ったこと。
馬房数がふえ手駒が揃ったこと。
さらに、レベルの高いスタッフたちの結束力に支えられたことが勝利の要因と考えられる。
「それは目の前の1勝にこだわりながらやってきたぼくのスタイルでもあるんです。
ただ、それは去年からはじまったことではないんで数字が伸びた要因とも思えない」と、
飯田師の発言はあくまで慎重で、謙虚だ。
とはいっても、一昨年(2017年)勝ち鞍が74勝だったことを思えば、
30勝アップは驚異的な数字である。
しかも新子厩舎と変わらぬ勝率を維持し、連対率では上回っている。
「ラッキーでした」ですませるような内容ではない。
勝利にこだわる戦略を押し通した結果の堂々たるリーディングなのである。
一方、吉村の場合は296勝というめざましい好成績をあげ、
兵庫県だけでなく全国リーディング制覇というパーフェクトを達成したのだから、
こちらは非の打ちどころがない。
「(去年の)3月半ばに全国トップに立っちゃってね。
あっ、今年獲らないとまずいなと思った。そんなチャンスめったにないですからね。
ですから3月以降はメチャクチャ意識して、数をかぞえてましたから…」
すでに3月の時点で全国リーディングに狙いをつけていたところに、
吉村の並々ならぬ闘志がうかがえる。
その気負いから勝ちを焦ったのか、10月末に騎乗停止(4日間)を受け、
ライバル森泰斗騎手(船橋)に逆転されてしまう。
「あのときはね、あっ、やってしまった! と思いましたけど、
かえって冷静になれたのがよかった」。
一時期、森騎手に10勝以上の差をつけられたが騎乗停止をうまく気分転換にあて、
頭を切り替えることができたようだ。
年末のデッドヒートを制し、終わってみれば4勝差で日本一に。
ここまで数字が伸びた要因を「いい馬に乗れたから」と吉村は言う。