2021年10月14日、秋晴れの下で行われた
『第14回 兵庫若駒賞』は1番人気のガリバーストームが優勝。
開業16年目、管理する尾林幸二調教師にとって、
嬉しい重賞初タイトルを手にした瞬間だった。
「この仕事をやっている以上は重賞を勝つのが目標。
でも、もう勝てないんじゃないかなと思ってました」
と尾林師は内心を吐露した。
新馬戦(7月14日)を大差勝ちして、
リフレッシュ放牧に出されたガリバーストーム。
休み明けの2戦目は接戦を制して連勝。
無敗のまま重賞へと駒を進めた。
「9月30日の一戦を叩いて、
いい感じで仕上げられたかなと思っていました。
レース間隔が少し詰まるということだけ心配でしたけど、
それはそこに番組がなかったのでしかたのないところですから」
と馬の能力を信じて本番へ臨んだ。
これまでの逃げではなく、2番手に取り付くレースぶり。
落ち着きかけていたペースが向正面で速まっていく。
人気していた分、周りにマークされて厳しい展開となった。
それでも最後は詰め寄られながらも、
持ち前の粘り強さで凌ぎ切った。
「2番手に付けたときはヨシヨシとは思っていました。
でもゴール前ではヒヤヒヤしました。
向正面で少し行きたがる面を見せましたけど、
そこは巧くワタル(広瀬航騎手)が好リードで頑張ってくれました」
「重賞は勝てないまま終わるんじゃないかな
と本当に思っていました。2着は何回かあったんですけど…。
プレッシャーもありましたし、
ジョッキー時代のときの方が楽だなと思ったぐらいです」
レースは調教師ルームで観戦。
周りからの温かい祝福をもらった尾林師。
検量室前に降り、帰って来た広瀬騎手を熱い抱擁で迎えた。
「馬が帰って来たときが一番嬉しかったですね。
ワタルが馬上で堪えきれずに泣いていたでしょ、
あれを見てついついこっちも抱きしめたくなりました」
デビュー当時のガリバーストームは既に大型馬だったので、
上手く仕上げられたらいいなぐらいしか
思っていなかったと尾林師は振り返る。
それでも「発走検査が思った以上の走りで、
能力検査も古馬と併せて、時計と内容に驚かされたんです。
馬込みにも怯まなかったし、古馬に楽々と付いて行けたんで、
この走りだったら1400mの新馬戦は、
おそらく良い勝負になるだろうと感じました」
ただ、大差ぶっちぎるとは思ってなかったらしく、
師の想像を上回る成長を示していた。
その後はソエを気にしていることもあり、
リフレッシュに充てた。
牡馬の大型馬なので、夏負けを心配してという面もあった。
「新馬の大型馬をこれまで預かっていなかったので、
いろいろ気を付ける部分がありました。
と言ってもぼくは馬を鍛えて強くするタイプなので、
ソフトには仕上げたわけではなかったです。
これはジョッキーのときから信条。
『人間も馬も鍛えてなんぼ』だと思っているんです」。
甘やかすことはせず、信条を貫き同馬を鍛え抜いた。
「ガリバーストーム自体、
バテるという馬ではないのでしっかり鍛えました。
脚元のソエだけが心配だったくらいで、
それ以外はこちらの思った通りの調教、
仕上げができました。
そして、それ以上の成長を遂げてくれています」。
無傷の重賞制覇という形で
ガリバーストームはしっかりと期待に応えた。
次走として『兵庫ジュニアグランプリ(JpnⅡ)』(11月25日)
への挑戦を予定していたが、中間の仕上げ過程で
左後ろ脚の球節を捻挫して調教は2日間休んだ。
オーナーサイドから100%じゃなかったら
無理に行く必要はないとの決断があり、
11月30日の認定レース(1700m)に
すぐさま切り替えた。
そして年末の『園田ジュニアカップ』に
向かうローテーションとなる。
※追記:ガリバーストームは、同レースを4馬身差で圧勝し、
さらに自信を深めて本番に臨むことになる
「ワタルの方から『先生、調教させてください』
と言ってきたんです。
元々、調教しているときの姿勢が良かったし、
真面目なのも知っていましたから、
そう言ってきたときはぼくも嬉しかったです。
それから調教をお願いすることになりました」
いまでこそ尾林厩舎の主戦騎手を務める
広瀬騎手との最初の繋がりには、
こんな経緯があったのだ。
「それ以前はレースでは全く乗せてなかったですけど、
乗れる騎手やのに、もっとやれるはずやのにと思っていた」
と師が言う通り、その後に広瀬騎手の成績は確実に上がって行った。
先月のクローズアップで広瀬騎手を取り上げたが
「尾林先生のところに若手騎手は行くべき」と語っていた。
広瀬騎手曰く「レースなどもよく見ているけど、
指摘が細かい。だからそれを修正することで
スキルアップに繋がる」と。
「そう言われると嬉しいですね」
と尾林師は少し照れ笑いを浮かべた。
「乗り方と言っても、自分のイメージした通りの
乗り方なんて100%できないんです。
勝ったときも、ほぼ馬が強かっただけ。
ただ、ミスを減らすこと。無駄をなくすこと。
馬に必要以上に消耗させないこと。
そういう観点から行くと、
リーディング上位に乗ってもらうのがベスト。
その方が絶対勝てますから。ただそれだけではなく、
調教に乗ってもらったり、付き合いがあったりするので、
そういうわけにはいかないのです」
広瀬騎手の起用は、
レースでの結果最優先でのものではなかった。
ところが、その後に広瀬騎手がスキルアップを果たし、
リーディング上位の常連になる。
『人間も馬も鍛えてなんぼ』の成功例をここでも発揮したのだ。
現役時代は重賞などの大舞台に強く
“重賞男”の異名を取った尾林師。
大舞台に立つ心構えはどんなものだったのか。
「レースは自分で勝ち取るもの。誰も助けてくれない。
12頭いたら、11頭はライバル。
人気すればするほど、勝って当たり前ですけど、
周りのジョッキーが勝たさんと思うのも当たり前ですからね」
と当時を振り返る。
数々の栄光がある中、一番印象に残るレースとして
挙げたのは1995年の『六甲盃』。
断然の1番人気に支持されたフェイトスターで
2着に敗れたレースだった。
「負けたのが悔しかった。
康誠(現JRAの岩田騎手)が逃げて、2番手に付けた。
10頭立てで、いつでも抜け出せると思っていたけど、
周りの誰もが動かず、馬群から出させてくれませんでした」
結局、6番人気の伏兵ツキノゴッドに騎乗していた
岩田騎手に逃げ切りを許してしまう。
そのときから、誰も勝たせてくれない、
自分で勝つしかないと思ったという。
「あのレースが一番印象に残っている。
人に頼るのではなく、自分で勝ちに行くしかない」。
その想いを一層強くさせた苦い経験だった。
「あのときの上位騎手のレベルは凄かったですけどね。
当時、全国でも園田競馬場が一番ゴール前の接戦が
多いって言われてましたから」
田中道夫、寺嶋正勝、花村通春、保利良次、小牧太。
そこへ岩田康誠が頭角を現してくるという
オールドファンが心躍るような面々たちと鎬を削った。
重賞の良い思い出としては、
自厩舎でデビューから携わった59戦27勝、
重賞6勝のヒカサクィーンを一番に挙げた。
そして牝馬ながらに摂津盃3連覇の偉業を遂げたフェイトスター。
ともに尾林騎手を背に一時代を築いた名牝だった。