いま現在めざましい成績をおさめているというわけではないが、元気で勢いがあって2年後、3年後
がたのしみな若手調教師というのが園田に何人かいる。
そんななかの一人が諏訪貴正調教師であろう。
開業して4年目、今年は8月末時点で(あと4ヵ月を残して)すでに過去3年間のキャリアハイに並ぶ
23勝をマーク、勝ち鞍の数で順調な伸びを示している。
その要因として諏訪師は「管理馬の質が向上してきたこと」をまっ先にあげた。
「3年を経て、だんだん馬のレベルが上がってきたことを実感しています。
成績が上がるにつれて馬主さんとの信頼関係をいままで以上に築けてきたことが最大の要因」と、
成績向上によって馬主との信頼感が強まり、いい馬が入厩する、その好循環が作用していると分析する。
厩舎を活気づかせ、高揚感みなぎらせる最大のものは、なんといっても看板馬の存在だろう。
周囲の視線が集まれば集まるほど、その厩舎の雰囲気は高まり、緊張感が増す。その点において、
デビューから3戦3勝のブレイヴコールの存在はきわめて大きい。
「1歳のときから目をつけ、新馬戦を勝利した経験はブレイヴコールがはじめてだった」と
諏訪師は言う。自らが探しだした仔馬を育てあげ、結果を出しただけに喜びは人知れず大きいようだ。
「去年のサマーセールで見つけて、ああ、いい馬だなと。最初に見たときは、ほんと惚れ惚れするよう
な、筋肉隆々でね。馬体に惚れこんで絶対欲しいと思いました」
「血統的にはカルストンライトオの産駒ですから、これからは距離との闘いでしょうけど…。
ただ気性はすごく良くて賢い。無駄なことはしないんです。
ジョッキーもレースはすごく乗りやすいって言ってくれてますし。
1700mぐらいならなんとかもつのかなと」
新馬勝ちしたデビュー戦は他を寄せ付けない文句なしの勝利、2戦目も圧倒的な力で押し切り、
9月8日の認定レースでは最強2歳馬の呼び声高いホープクリスエスを3/4馬身差で退けて
見事に3連勝を遂げた。
「3戦使ってみて能力を再認識させられた。
厩務員時代を含め、これまで携わってきた馬のなかではまちがいなく一番」と
諏訪師も舌を巻くほどの逸材。デビュー3戦ですでに大物ぶりを見せつけている。
なかでもブレイヴコールの心肺機能には目をみはるものがあるという。
「追い切ったあともケロッとしてますし、車でいうエンジンは、ほんといいものを持ってます」
調教師が、あるいは厩務員が、1頭の馬を育て、えがいた理想どおりの競走馬に鍛えあげてゆく
情熱というのは、男女間の無垢な恋愛感情にどこか似ているのではないか。
たとえ成就しなくとも、見返りを期待しない純粋さはまさしく恋愛そのものだ。
諏訪師はブレイヴコールにぞっこん惚れ込んでいる。
もうメロメロ……言葉の端々から、それが感じられる。
ざっと経歴を紹介しておこう。
大阪府豊中市出身。京都の龍谷大学に学んだ。
「競馬の“け”の字も知らなかった学生」が友人に誘われ、京都競馬場でレースを見て虜になる。
競走馬の美しさ、レースの面白さ、迫力……すべてが魅力的で「ああ、こんな馬を世話してみたい」と
考えはじめる。
バックパッカーでモンゴルの大草原を旅し乗馬を体験、そこで馬の素晴らしさをはじめて実感する。
愛情断ち難く、その後2年間は京都競馬場の乗馬センターに通った。
大学を卒業後、彼が選んだのは北海道新冠の育成センター。
競走馬に関する研修を半年間受けたのち、マエコウファームに就職。
本格的に馬の育成に携わったのはこのときからだ。
将来調教師をめざすという考えはまったくなく、ただ馬が好きで、ずっと北海道にいてもいいと
思っていた。
しかし馬との蜜月は1年少しで破綻する。腰を痛め、馬に乗ることすらできなくなって泣く泣く帰阪。
馬と無縁の生活が3年つづいた。腰が回復すると馬が恋しくなり、26歳のとき笠松競馬場の厩務員に。
2年間みっちり調教を勉強したのち、サラブレッド導入初年度(1999年)、園田に移った。
そして徐々に調教師への夢が膨らみ、2012年9月に調教師免許を取得する。
開業は翌13年5月。京都競馬場で馬に魅了されてから20年がたっていた。
人生の変遷というのは面白いものだが、その間、持ちつづけた信念は一貫して変わっていない。
馬に対する愛情、その想いの強さである。
諏訪師は開業前に自厩舎のホームページを立ち上げている。
「ぼくはジョッキー出身でもないし有名トレーナーの息子でもないんで。
とりあえず名前を知ってもらうことからはじめようと…」
自分がアウトサイダーであること、無名の新人調教師にとって自己アピールが大事であることを
いち早く認識し、情報発信をマメにしようという発想である。
同時に古い殻を破り、新しい園田ファン獲得に取り組む姿勢のあらわれでもあろう。
現在はフェイスブックで若いファンたちとの交流も重ねている。