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クローズアップ ホースマン達の勝負に懸ける熱き想い

事業をやり終えた、満ちたりた男の顔/橋本忠男 調教師

PROFILE

橋本 忠男(はしもと ただお)
調教師
1947年6月25日、兵庫県生まれ。
 
兵庫県競馬の名門・橋本有慈男調教師の長男として
誕生するが、後を継がずサラリーマンの道を歩む。
 
その後に馬主の声掛けで競馬界に入る。
厩務員、調教師補佐を経て1987年に
調教師として開業。
 
以来、1374勝という輝かしい戦績を挙げる。
人望も厚く、調教師会々長も務めた。
重賞51勝。その内他地区で21勝と遠征で
無類の強さを発揮した。
最後の重賞挑戦となった2017年『新春賞』で、
写真判定にもつれこむハナ差の大接戦を制し、
エイシンニシパで劇的な優勝を飾った。
これで取材時は51勝だった通算重賞勝利が、
52勝となった。
 
息子は橋本忠明調教師。
名門の血が脈々と繋がっている。

写真

他場で勝ってこそ、馬の価値が上がる。

 この馬、お前のために入れてやるんやぞ、と馬主から言われたことが何度もあった。
お前のために入れたんやから重賞獲れ!とハッパをかけられた。その1頭がホクザンフィールド。
オーナーは中央で走らせるつもりでいたが、それを忠男厩舎に預けた。
「重賞を獲れって言われるとプレッシャーを感じるよ。
だから獲ったときは(2001年12月・園田ジュニアカップ)はうれしかったね」
ホクザンフィールドはジュニアカップにはじまり地元の重賞を5勝、他地区で2勝している。
忠男師の場合、通算重賞51勝のうち他地区重賞21勝というのが特徴的だ。
他場でレースをすれば、なにかしら得るものがある――というのが信念のようなものになっている。
「よそが来るのになんで園田は行かへんのか」という思いが強い。
「園田で走ってるだけでは、それこそ内弁慶。それは馬だけやなくて人間も含めてね。
笠松(競馬場)でお客さんから言われたことがある。重賞を勝って表彰台へあがるとき
『橋本、もう笠松来るな!』って」
園田からやってきて重賞をかっさらってゆく忠男師に対する、ある意味でホメ言葉であろう。
 
「ぼくの考えでは、園田でなんぼ売り出したって他場で勝ってこそ馬の価値が上がると思ってます。
ただ、行って勝てるとはかぎらない。いろんな不利な条件があるしね。それだからこそ値打ちがある。
若い調教師たちに、負けてもええから外に目を向けてほしいね」

ベストレースはひとつじゃない。

 かつて忠男厩舎に所属していた騎手は平松徳彦にしろ新子雅司にしろ、中堅・若手の調教師として
めざましい活躍をみせている。
そして最後の弟子となったのが吉村智洋。忠男師は吉村の成長を「思った以上」と高く評価する。
高評価の理由として彼の調教過程の巧みさをほめた。
 
「(エーシン)クリアーにしたって、サルサにしたって、走ったのはあいつのおかげやと俺は思ってる
あいつの調教がよかったから馬がついてきてる。
このごろは、この馬はこうやと自分の意見を持つようになった。
人に恵まれたといいうなかの、彼もその一人やと思ってるよ」と、たのもしさを感じる弟子に
日頃かけたことのない賛辞を贈った。
 
 思い出に残るレースは2014年7月の金沢競馬の重賞「読売レディス杯」。
木村健が乗ったこのレースを境に、サルサの快進撃がはじまる。
「あれはね、木村やから勝てたんや。返し馬でラチに飛び込んでしもて……。
あのときはぼう然とした。レースはスタートで出遅れたんやけど、それでも1コーナーで強引に割って
入って2番手にポンとつけた。
あれは印象に残ってるね。それと学が(エーシン)アガペーに乗った福山でのレース。
上手に乗ったわ。
それからマッキーローレルがセントライト記念でもうちょっとで3着やったシーン……
どんどん出てくるな、思い出が」
 
 そうした活躍のうらで、心にハンディキャップをかかえていたと忠男師は明かす。
それは騎手や厩務員の経験もなく、30歳をすぎて“親の七光り”で参入した者の持つ負い目だった。
「子どものころから寝わらの上で育ってたから馬は身近な存在ではあったけれど、
やっぱり頭のなかにはハンディを持ってる意識が強かったね。
どうやって克服すればええのかと考えたとき、何で勝負できるかといえば勝ち鞍しかなかった。
勝ち鞍を上げんといかん。上げるためにいろんな努力(営業・技術)をしました」

 

勇退後、やりたいことは山ほどある

 これまでに忠男師がリーディングを取っていないというのが七不思議の一つである。
それでもここ10年のランキングでみると、ほとんどの年が5位以内。
なかでも2012年は103勝のキャリアハイを残したが、まだ上に田中道夫師の109勝があった。
「どこまでいっても二番目の男やで」と本人は豪快に笑う。
リーディングを獲れなかったことは心残りだろうと思うが、そのことよりも馬に恵まれ、
人に恵まれたことへの感謝を何度もくりかえし語った。
「ここまでこれたのは人に恵まれたからや。俺の力がどうのこうのゆうことは絶対あらへん」
 
 橋本忠男師は人間としての風景というか、その表情を話っぷりに独特の味わいをもつ人だなと、
今回あらためて思った。
サラリーマン時代、営業畑を歩いた経験から身につけた人当たりのよさ、
冗談をまじえながら場をなごませ、自分のペースで軽やかに、
巧みに話を進めてゆくテクニックを持ち合わせている。
このキャラクターがそのまま人間の器となってまわりの人たちを惹きつけてきたのだろう。
「人に恵まれ、ここまでこれた――」と師は言うが、それは橋本忠男の持つ磁力(人間性)によって
まわりを引き寄せたということだと思う。
 
 若手トレーナーが成長してきている園田の現状をみるにつけ、あんしんして後を託すことができる
という思いが強い。
「あとは若いもんが自分の力で一所懸命やったらええ。助けてもらってるうちは伸びない。
頭を打たなわからん」。やり切った満足感があるからこそ出る言葉だろう。
 
 勇退後は「やりたいことが山ほどある」そうだ。
「まずはね、もう一度学校に行きたい。若いころに勉強したことが一つも残ってない。
シニアスクールかなにか、そういうところでもう一度勉強し直したいね。それと旅行やね……」
 
 これからの予定を愉しげに語る忠男師の顔は一つの事業をやり終えた、満ちたりた男の顔であった。
 
 

[追記]橋本忠男師が参戦した最後の重賞『新春賞』で、吉村智洋騎乗のエイシンニシパが勝利した。
成長著しい愛弟子による重賞制覇は調教師生活の有終の美を飾るとともに、
このうえない餞(はなむけ)となった。

 

文 :大山健輔
写真:斎藤寿一

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