取材場所にあらわれた木村健は幾分ふっくらとした顔つきで、元気そうに見えた。
「ひさしぶりです」声は明るく、朗らかで、いつになく晴れやかだった。
この日(3月16日)の前日、調教師試験の発表があり合格通知を受けたばかり。
気分の悪かろうはずがない。
「いやあ、おめでとう!」
取材に立ちあう吉田勝彦アナ、竹之上次男アナが握手を求めると、
両手で握りかえし、拝むように頭を下げた。
合格の知らせを聞くまでは心臓の「バクバクが止まらなかった」らしいが、
ひとつの関門を乗りこえた安堵感が表情にあらわれている。
レースから遠ざかって、はや8カ月ほどがたつ。
55キロだった体重が、いまは64キロだという。
あの細身で精悍だった青年が中年期にさしかかろうとしている、
その境い目に立ちあっているような妙な気分だ。
昨年7月21日のレースを最後に、木村健はファンの前に姿をあらわしていない。
どこで何をしていたか。馬のことを一から学ぶため厩務員生活をつづけていたのである。
「これまで馬は触ったこともなかったし、脚もとの感じもわからなかった。
脚を触ったり馬を引っ張ったりするのって怖いですよ。
上に乗ったら強いけど、下にいると怖い。やってみないとわからんもんね。
もうちょっと持っててやって俺ら上から言うけど、
いざ自分が引っ張ったらむずかしいし、怖い。
いや、厩務員さんってすごいなとあらためて思いましたよ」
同じ競馬社会にいて競走馬を相手に仕事をしていても、
上と下ではこんなにも恐怖感がちがうものなのだ。
騎手時代には味わえなかった貴重な体験を重ね
「ようやくちょっとわかってきた段階」だという。
現在は自厩舎(西川厩舎)の馬2頭、田中範雄厩舎の馬1頭を担当し、
ほかの厩舎の馬数頭を攻め馬している。
木村は笑いながら「騎手のころよりよっぽど働いてます」と言って、
その内容を話してくれた。
起床は午前0時20分。10分後には馬房に入って寝藁を替え、
馬を連れだし運動をはじめる。
攻め馬をスタートするのが1時半。
最初に担当馬3頭の調教を終わらせ、つぎに他厩舎の馬に跨がる。
騎乗する馬は都合6、7頭。朝8時ごろまでびっしりやる。
腰痛持ちの木村にはハードな作業である。
「でも、馬やっててだいぶ楽しくなってきた」と、日々の充実ぶりを明かす。
いつごろになるかまだ未定のようだが、
JRAの笹田厩舎に研修にいくことがすでに決まっている。
「研修でいろんなことを学びたい。楽しみです。
それと、4月になったら北海道にいきたいですね」開業に向けての青写真は
まだ先のようだが、その地固めとなる知識の習得と蓄積、
あるいは牧場めぐりでの情報収集など、
馬に関するあらゆるものを貪欲につかみ取ろうと意欲的だ。
木村健が引退せざるをえなくなった原因は腰の椎間板ヘルニアであることを
ご存じの方は多いだろう。
フルパワーで妥協のないアグレッシブな騎乗、
そのツケは大きかったと言わざるをえない。
引退を決意するまでの2年間ぐらいがとくに酷かったようだ。
治療に専念し、やっとこれでまた乗れると思った直後にまた痛めてしまう。
「毎日痛み止め飲んで乗ってたんで、体がおかしくなりそうでしたね。
レース乗ったら忘れてるんですけど、終わったあとの反動がすごかった」。
ヘルニアを二度くりかえし、三度目があるよと医者から言われていた。
「もうあの痛みは耐えられないと思って。
ファンに申し訳ないし、たびたび乗り替わりがあったしね。
三度目がいつやってくるかドキドキしながら乗ってましたから」
ジョッキー生活に未練は? と訊ねると、
「ないと言ったらウソになるけど、腰がダメになったことが
いいきっかけになったと思いたい」
と、いまは状況の変化をポジティブに受けとめている。
20000回以上の騎乗で通算3560勝。
地方重賞70勝という途方もない成績を残した。
18歳でデビューしたときのインタビューで「父親の騎手人生は不運であった
けれど、オヤジの無念をぼくが晴らす」と強い決意をのべ、
その言葉どおり見事な快進撃をつづけ偉大な記録をいくつも樹立した。
重賞70勝はむろん兵庫県レコード。
田中道夫や小牧太、岩田康誠もおよばなかった大記録である。
年間288勝(2008年)も兵庫県の最多勝利記録。
重賞勝ちでいえば「兵庫ダービー」を2011年~16年までの
6年間で5回制覇している。
また、1日6勝の固め勝ちだったり騎乗機会7連勝だったり、
6レースから11レースまで連続レース6連勝といった記録までつくっている。
とにかく出走するレースは全力疾走、
“強い木村”をファンに印象づけた騎手人生であった。