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クローズアップ ホースマン達の勝負に懸ける熱き想い

やさしさ、甘さをバネに変える。/渡瀬和幸 騎手

PROFILE

渡瀬和幸
1979年11月6日、宮崎県生まれ。
1999年にデビューして、
今年で20年目を迎える。
 
スタート勘の良さと、
身体を目一杯伸ばして
ゴールへ入線する
勝利への執念がウリ。
 
身体が柔らかいことから
ケガが少なく、
今回が初めての
2ヵ月以上の戦線離脱。
 
弟は調教師の寛彰氏。
 
家族構成は妻と一女二男。

写真

騎手人生はじめての大ケガ

 9月13日の最終レース終了後に園田の馬場で能検が行われた。
デビュー前の若駒や放牧、
故障明けの馬の回復具合をチェックするための能力検査である。
この日、渡瀬和幸は新井厩舎にやってきた2歳馬レオタイザンに騎乗して
能検を受けていた。
 
「この馬、期待されてるんで楽しみなんです。まだまだ子どもなんでね、
これから良くなると思います。
できれば大きいところ(重賞)を狙いたい。狙える器だと思います」
 
馬場を駆け回ったあと、大粒の汗を拭きながら、少し昂奮気味に語った。
 
「(調教を)任されたからにはしっかりと仕上げていきたい。
(デビューは)年末に間に合えばいいんですが…。
楽しみは来年以降ですね」
 
騎手デビュー20年目の今年、騎手になってはじめての大ケガを負い、
この日の前日に復帰したばかりである。
ケガの顛末はこうだ。
6月23日の調教時、朝5時40分ごろのことだった。
2歳馬に乗って馬場に入ろうとした瞬間、急に馬が立ち上がり、
あおりで馬体もろとも仰向けに転倒。
渡瀬の脚の付け根あたりに400キロの馬が覆いかぶさってきたのである。
救急車で運ばれ、即入院。両前壁不全骨折と診断された。
 
「ぼく、これまで落馬しても絶対ケガしなかったんですよ」。
筋肉がやわらかく、整体師が体のやわらかさに太鼓判を押すほどだったのだが、
今回はそうはいかなかった。
7月10日に退院、リハビリに励んだ。
ほぼ3カ月にわたる戦線離脱ははじめてのことである。
療養中は「気がアセったらいやなので」いっさい競馬は見なかったという。
 
渡瀬がリハビリに励んでいた7月半ば、
実弟の渡瀬寛彰調教師をこの欄で取り上げたのだけれど、
そのときに聞いた話が面白かったので兄の和幸に確認してみた。
オグリキャップの引退レース(90年の有馬記念)を見て、
いたく感動したお母さんが息子二人を騎手にさせようと
勝手に決めてしまったという話。
 
「ええ、本当です。小さいときから体は柔らかかったので、
母親は体操選手になってほしかったみたいです。
水泳、空手、野球もやったけど、どれも長つづきしませんでしたね。
ただ、母親のすすめで入った乗馬クラブだけは楽しくて、
中学を卒業するまでつづきました」
 
中学卒業後、乗馬クラブのオーナーの薦めもあって
佐賀競馬で下乗りの修行をはじめ、厩務員をしながら騎手をめざす。
が、1年後に原因不明の腰痛を発症。
一時期馬との接点をなくしたが、
その後、荒尾競馬で再び騎手をめざすことになる。
同じ騎手をめざすならよりレベルの高いところがいい、
と園田の碇厩舎に移り、1999年4月にデビューを果たした。

 

結婚狂騒曲

渡瀬の通算勝利数は436勝(9月13日現在)。
06年と07年にキャリアハイの39勝をあげているが、
それ以外の年は30勝に届かず成績は低調で、
これまで目立った手柄といえるものはなかった。
そんな彼が韓国へ武者修行に出かけたのがデビュー10年目の2008年。
3カ月の滞在中、騎乗機会4連勝を含む10勝をあげる
好成績をおさめたことは自信につながったようだ。
 
「なにも知らない国で生活がはじまったので、語学が身につくし、
人間関係も一から築けて仲良くなれましたね」。
同時期にミスターピンクこと内田利雄騎手が韓国競馬で活躍していたこともあり、
内田騎手から技術面で直接指導を受けたり、
逆に韓国人騎手に教えたり、充実したときをすごせたという。
 
帰国後、その成果をステップに、一気に成長をとげたという
話になればいいのだが、現実はそう甘くはない。
依然として目の前に30勝のカベが立ちはだかっている。
 
「30勝というより、一番多く勝った39勝を超える
数字をあげたいという思いが強い。
今年はケガがあったんで残せなかったですけど、
だけどこのまま終わりたくない」と、終盤戦への意欲をみせる。
 
「若手がふえてきて、なんとか負かしてやろうと思ってるんですけどね。
昔とちがい、いまの若手はよく乗せてもらえるでしょ。
ぼくらの時代はひと鞍乗せてもらえるだけでラッキーやと思ってた。
まだまだヤル気では若手に負けてないですよ」
 
38歳のベテラン騎手の意地とプライドは健在である。

 

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