前回の渡瀬和幸と同様に、今年大ケガを負って戦線離脱し、
ようやく復帰したのが板野央である。
騎手生活18年間で、骨折によるケガでリタイヤしたのは
今回が4度目だという。
鎖骨、右膝、鎖骨とつづき、今度は腰をやった。
「メチャメチャ痛かったです。
鎖骨の骨折なんか軽いなって思いました」
5月下旬の非開催日、いつもどおり午前0時40分に調教をはじめ、
1頭目を終えて2頭目に跨がった直後のことである。
馬場に入りかけた瞬間、突然、振り落とされ背中から地面に叩きつけられた。
運わるく馬はクセ馬だった。
クセ馬はときに何をやりだすかわからない。
自力で這うようにして馬場を離れたが、立ち上がれない。
その状態で一旦自宅に戻ったというから打撲程度だと思ったのだろう。
痛みが激しくなり、仕方なく救急車を呼んだ。
診断は第2腰椎圧迫骨折。絶対安静。入院は3週間におよんだ。
7月8月と2カ月間は自宅療養、ようやく8月末に騎乗できるまで回復した。
今年は序盤から順調に数字を伸ばしていた板野には痛すぎるリタイヤとなった。
「ケガしてしまうと、それまで調子がよくても途端にゼロになってしまう。
ケガだけは避けたいと毎年思っているんですけど…」と、悔しい胸のうちを語る。
「数字的には不満が残りますね。ケガがあったから仕方がないなとは思わない。
思いどおりの結果を残せなかったのは悔しいです」
レースに復帰したのが9月10日(代替開催日)で、
14日に復帰後初勝利をあげ、取材日の10月18日現在まで
5勝している。
これまで所属していた荒山廐舎(5月に廃業)から、
新スタートをきった木村健廐舎へ開業と同時に移籍したのは
10月1日のことだった。
木村調教師とは、彼の現役時代から家族ぐるみのつきあいだという
親密な間柄であり、板野にとっては兄弟子のような存在。
それだけに今回の移籍は、意気に感ずるものがあるにちがいない。
その記念すべき初勝利をもぎとったのが板野だった。
初出走から数えて7戦目、ビナゼウスで新馬勝ちをおさめたのである。
新廐舎が育てた新馬で勝ちをおさめたことは、
廐舎の実力を示す意味においても価値ある1勝だったといえる。
板野の騎手生活18年を振り返ってみて目をひくのは、
2006年から2011年までの6年間が飛び抜けているということだ。
この期間は途切れず年間60勝以上をあげ
(2009年にはキャリアハイの85勝をマーク)、
ランキングはどの年もひと桁台をキープしている。
ところが2012年以降、勝ち鞍が半分まで減ってしまった。
このあたりの事情を板野はこう話す。
好調だった時期は野田学廐舎がすごい勢いのあったころで、
学廐舎にジョッキーがいなかったこともあって、
ぼくが主戦ジョッキーみたいなカタチで乗せてもらってました。
06年にバーンと数字が上がったのはそういう経緯なんです」。
そして2012年以降については「ぼくの努力が足りなかったから」と、
素直に非力を認める。
努力が足りなかったことが原因のすべてかどうかはわからない。
いくら騎手がひとり頑張っても数字は残せない、
さまざまの外的要因があるのが競馬社会でもあるのだから。
ともかくも、結果がすべての勝負の世界で板野はこの数年、
思いどおりの成績を残せないでいる。
広瀬航、竹村達也と同期デビューした彼は、つねに頭ひとつ抜け出た存在だった。
通算勝ち鞍では現在まで3人のなかでトップの数字(739勝)を残している。
その彼が近年のランキング順位でいえば広瀬、竹村に先を越され、
後塵を拝する立場になっている。
当然「いまの状況を打開したい」という思いは強い。
これまでクレバーな騎乗でレース巧者ぶりを発揮してきただけに、
彼のよさが影をひそめているのが残念だ。
努力の足りなさを本人は「自分を売り込む積極性に欠けていた」と、
営業面のウィークポイントをあげたが、
木村廐舎に移ったことで環境も変わるだろうし、
なにより自分のなかの意識変革に期待しているように感じられた。
ここからが板野央のリスタートだと、自らを鼓舞するいい機会でもあるのだ。
木村廐舎は廐務員3人で、現在12頭を管理(11月には16頭を予定)している。
「みんなワイワイにぎやかにやってますよ」。
出来たての廐舎らしい明るさと活気に満ちているという。