明石市出身の大山師。
「父親が競馬好きで、
姫路競馬場に毎週のように連れて行ってもらっていました。
金網によじ登って競馬を見てましたよ(笑)」
そういう経緯で、小さいころから自然と騎手に憧れて、
職業にしたいと思っていた。
あるとき母親が新聞の広告で地方競馬の騎手への道を見つけ、
大山少年は迷わず足を踏み入れていく。
1989年11月1日、17歳で憧れだった騎手になった。
ご両親が見守る姫路競馬場で、
なんと初騎乗初勝利の快挙を成し遂げたのだ。
「親は喜んでくれましたね。
そのあとも父は毎日のように観に来てくれていました」
ジョッキーとして浜口厩舎でデビュー。
その後に渡辺厩舎、謝良文厩舎、西門厩舎と渡り歩いた19年。
勝負服のデザインはたまたまスペシャルウイークと同じだった。
騎手人生はケガが多くて苦しんだ。
そう言えば、筆者が実況デビューしたレースで落馬したのが大山騎手だった。
一番の悔しい思い出として、
1997年の『園田金盃』でトーエイスーパーに騎乗して、
エイランボーイにハナ差の2着に敗れたことを挙げてくれた。
あるときの姫路競馬場で特別レースを勝ったことがあった。
そのときの写真をいまでも玄関に飾ってあるらしい。
「竹之上さんにインタビューされている写真ですよ。
お互いスリムやったねぇ(笑)」
ほっといてんか!(汗)
騎手として19年。引退して調教師補佐となり、
田中道夫厩舎で従事した。
兵庫県だけに限らず、
地方競馬は売り上げ減にあえいでいた時期があった。
そのときは「調教師になることに不安があった」という。
それでも、競馬界に足を踏み入れたのであれば、
最終到達点として調教師への道というのを意識していた大山師。
「補佐時代にいろんな調教師を見て、
シミュレーションはできていました」と
ホースマンとしての集大成に動き始めた。
「調教師になれたことは嬉しい反面、責任を感じる。
一方で、自分で馬を育てられる喜びも感じている」
現在馬房数は16。スタッフは4人。
その内のひとりが西門元調教師。
かつての師匠がスタッフとして加わってくれている。
調教師として大輪を咲かせることはなかったが、
調教師補佐時代は腕利きとして名が通っていた。
心強い存在の西門さんに、
ツムタイザンを担当してもらうことにした。
「もう最初から、これだと思える馬が入ったら、
西門さんに恩返しの気持ちで担当してもらおうと思っていました」
西門さんも元弟子だった親方の想いに応えて、
ツムタイザンを無敗で重賞ウイナーに育て上げた。
美しい師弟愛だ。
息子の義文君は、騎手を目指して地方競馬の騎手過程を学び、
デビュー寸前のところまで来ていた。
「体重の管理ができなかったんです。
自己管理ができなかった。
でも、それで良かったんだと思います。
逆にあのままプロになっても通用しなかったと思います」
と父として厳しい一面を見せた。
「いまは厩務員としてうちで働いていますが、
本人はまだ諦めていないんじゃないかな。
口には出しませんけど、
既にデビューして活躍する同期のレースをしっかり観ていますから。
また騎手になりたいとなったらなったで、
嬉しいですけどね」と今度は優しさが覗いた。
その義文君を含めた厩務員4人中3人が自分で調教がつけられる。
ジョッキーには頼らず、厩舎のスタッフで管理、
調整するというのが厩舎のポリシー。
こうすることで一頭一頭に時間をかけられる。
自分たちのスタイルで調整できる利点がある。
これは厩舎の強みになる。
依頼する騎手も、しがらみがない分自由が利く。
西脇トレセンで調整されて、園田所属の杉浦騎手が騎乗する
というスタイルも問題なくできあがった。
思えば、レースの一週間前から胃が痛くなるほど緊張していた
大山師の心境を、杉浦騎手は察しなくて済んだのだ。
これも利点だろう。
実はツムタイザンという馬名、
大山師のお孫さん“つむぎ”ちゃんからとったのだそうだ。
牡馬にしては少々可愛らしすぎるきらいがある。
それでも不思議なもので、
走るたびにその名が似合ってくるのだ。
30年以上のホースマンとしての想い、
馬主さん、生産者への想いをツムいで、さらに勝利をツム。
開業2年目でまだまだ走り出したばかりの大山厩舎。
ツムタイザンととも歩む
これからの活躍を目をツムらないで見て欲しい。