苦境を乗り越えてきた男
~高畑皓一騎手~
今年でデビューから丸15年、トランポリン日本代表選手として世界大会でも戦った異色の経験を引っ提げ、22歳で騎手デビューを果たした高畑皓一騎手。
だがここまで順風満帆とはいかず、様々な葛藤と闘いながらここまで騎手人生を送ってきた。その中で起こった出会い、気づきによる成長があったからこそ、今がある。
深紅の勝負服を身に纏い、日々奮闘を続ける38歳に迫る。
夢中になったトランポリン
幼少期に始めたトランポリンは高畑少年を虜にした。
たまたま家の近所にトランポリン教室があって姉が通い始め、そのレッスンについていくうちに夢中になった。
高畑騎手は福井出身。隣県の石川は“トランポリン王国”と称されるほどトランポリン競技が盛んな地域で、選手が技を披露するイベントなども開催されていた。そのイベントに参加して刺激を受け、小学校低学年のうちには選手を目指すレッスンを受けるように。
成長の過程で、サッカーやソフトボールなど学校の部活動ではほかのスポーツで汗を流すこともしたが、月に何度も石川まで1時間かけて通い、トランポリン最優先の生活を送った。こうしてトランポリン選手を目指して鍛錬を積み、国内屈指の実力を身につけていく。
小学1年から大学2年まで15年近くトランポリンを長く続ける中で、世界大会への出場も経験した。
「一度デンマークに行けるチャンスもあったんですが、その時は既定の技がなかなかできずに辞退せざるを得なかったです。でも、高校1年の時にはオーストラリアでの世界大会に行かせてもらいました」
ジュニアの大会ではなく、大人も含めたトランポリンの世界一を決める大会。そこで11位の記録を残した。
「今はそれほどでもないですけど、昔は緊張しぃだったんです・・・。ご飯とか食べられなくて、オーストラリアも食事が濃くて合わなかったんですよね。でもトップの選手はその場の空気を楽しめるんですよね、すごいですよ」
世界との差を痛感した11位。しかし何物にも代えがたい貴重な経験を日本に持ち帰った。
トランポリン選手から騎手へ
高校卒業後は、トランポリンの名門校である金沢学院大学へ進学。今年のパリ五輪出場の女子代表・森ひかる選手は大学の後輩だ。
「国内大会で初優勝したのが大学生の時だったんです。インカレで初めて表彰台の真ん中に立ちました。他の大会でも、2,3回優勝させてもらいました」
国内のトップにまで上り詰め、順風満帆に見えたトランポリン人生だったが・・・。
「燃え尽き症候群ではないんですけど、練習に身が入らなくなって・・・今後どうしようかなとアルバイトをしながら悩みました。将来なりたいもの、ビジョンがなかったんです。そんな中、親の知り合いが『ジョッキーをやってみたら』と勧めてくれたんです」
これがきっかけで19歳の時に一度NARの騎手試験を受験した。しかしこの時は不合格に終わった。
「僕自身は落ちたからもういいわと思ったんですが、親が騎手のことを色々と調べているうちに夢中になっちゃって・・・」
高畑騎手自身も競馬には興味がなく、家族の中にも競馬を見る人はいなかったというから人生の分岐点とは不思議なものだ。
翌年、家族の後押しもあって、受験資格が20歳までとされているNARの騎手試験に再トライ。見事合格し、ラストチャンスをものにして騎手への第一歩を踏み出した。
20歳での入学ということで、周りの候補生よりもおのずと年上になる。
「1年前落ちた時に大柿先輩と一緒受けているんですよ。入った時に『お~やっと来たか』みたいな感じだったんです。年齢は3つ違いますけどね」
年齢ではなく入学した期によって先輩後輩の関係が出来上がる世界。実年齢との逆転現象が起こったが、その上下関係は全然気にはならなかった。しかし、乗馬経験がなかった点はかなり苦労した。
「競馬学校は厳しくて大変でした。それまで馬には乗ったことがないどころか、触ったこともなかったんで・・・右も左も分からない状態でした。特に乗馬訓練がきつかったです」
それなりに乗馬の経験を携えて入学してくる候補生がほとんどの中、ゼロからのスタートで「常に不安しかなかった」という。訓練の厳しさについていけない候補生も出て、入学時に15人にいた同期は、最後には10人になっていた。
もう二度と戻りたくないという2年間だが、「もうこれしかないと思ったんでしょうね」とやめずに卒業まで頑張り抜き、晴れて騎手免許を得た。
騎手デビュー、そして下積み時代
2009年4月15日、平松徳彦厩舎所属でついに騎手としてデビューの時を迎えた。
初戦は三宅直之厩舎のブリザードマグナムに騎乗し4番手追走からの4着と上々だった。しかし4月はこの1鞍だけ。5月も開催13日間でわずか8鞍の騎乗だった。
「下手でした、調教で毎日落ちてましたからね。本当に下手過ぎて・・・。面倒見切れないって、そりゃ先生も見切りますよね」
技術面の未熟さゆえ、レースで一度も自厩舎の馬に乗ることなく、5月末には自ら三宅直之厩舎へと移った。
そして迎えた6月30日、初勝利の時が訪れる。姫路から園田に開催が戻っての初日だった。
「覚えています、エヌオイルですね。勝っちゃったという感じです。内を捌いて、開いたところパッと抜け出して。バシャバシャ馬場でね。嬉しかったですけど、頭の中真っ白でしたね。勝ったよなぁって・・・(笑)」
9月にようやく2勝目を挙げたが、デビューイヤーはこの2勝のみ。
「この頃は休みの日が多かったですもんね」となかなか乗り鞍がない中でも、調教とレースの経験を重ねることで少しずつ技術も向上し、2年目4勝、3年目6勝と少しずつ勝ち鞍を積み上げていった。
そして、4年目の2012年に高知競馬場で行われる若手の登竜門「全日本新人王争覇戦」で優勝を果たす。
第1戦は10番人気ジョウゲンで4着と健闘。そして第2戦はニューディケイドで激しい先行争いを制して向正面でハナを奪うと、直線後続を振り切って快勝。計29ポイントを獲得し、栄えある“新人王”の称号を手にした。
「大会のことはあんまり覚えていないんですけどね。この頃は先輩も怖かったんですが、『良かったなぁ』とみんなに祝ってもらえて。嬉しかったですね」
(写真: 地方競馬全国協会より転載)
この年の4月には、三宅厩舎から寺嶋正勝厩舎へと移籍した。
「三宅先生が園田へ厩舎を移すことになったんですが、僕は西脇に残りたかったので、寺嶋正勝厩舎で働いている知り合いの厩務員さんの伝手で移籍しました。名門の寺嶋厩舎やしやっていけるんかなぁ、理さん(下原理騎手)の弟弟子になるわけやし、迷惑は絶対にかけられないと思っていました。寺嶋先生は厳しかったですね。攻め馬やレースはそこまでではなかったんですけど、時間にはめちゃめちゃ厳しかったです。装鞍とか2,3分遅れたら蹴られてました(笑)」
今も装鞍の2~30分前には行くようにしているというから、時間を守るということがしっかり体に染みついたのは先生のおかげだと感謝している。
2015年3月、寺嶋師が急逝したため、開業2年目の坂本和也厩舎へと移った。
「実はもうこの時点で騎手をやめようと思ってたんですよね。結婚して子供ができて・・・。かといって乗鞍も少ないし。年収も最低で、ケガもしてしまって。お腹が大きくなってきた奥さんともしょっちゅう喧嘩していましたね。自分がいっぱいいっぱいで余裕がなくて。いわば八つ当たりですから、申し訳なかったですね」
もはや自分一人ではない。家族のことを考え、「このままでやっていけんのかなぁ」と苦しんでいた。
偶然から訪れた転機
2016年夏、大きな転機が訪れる。
「たまたま高馬先生(高馬元紘調教師)と馬場で一緒になって、『最近どう?』って話しかけられたんです。『やめます』って言ったら、しばらくして『せっかくジョッキーになったのにもったいない。やめるのはいつでもやめられるから。うち来い!』って言ってくれて」
1年半ほど騎手時代に一緒にレースで騎乗したことはあったが、高馬師とそれほど深いつながりがあったわけではないという。実際、2011年に開業した高馬厩舎の馬には、それまで5年間1頭もレースで騎乗していない。
移籍について悩んでいた所、今度は高馬厩舎の食事会に招かれた。「行ったら『いつ移籍してくるの?』って言われて。えっ、向こうはもう話ができあがってるやんって(笑)」
高馬先生と一緒に食事をしたのもこの時が初めてだったそうだが、偶然の何気ない会話から話は一気に進み、高馬厩舎へ移籍して現役を続ける決断をした。
「うち来いよと言われてなかったら、やめてましたね」
「高馬先生からは『自厩舎は4~5頭でいいから他厩舎メインで乗っていけ。営業していかなあかん』と言ってもらいました。『何でも乗ります』と営業して、それからですね。高馬厩舎も色んな馬がいて、調教の技術が身につきました。最初の平松厩舎や三宅厩舎の時は、下手過ぎて攻め馬にも乗せてもらえなかったですから」
気性的に難しく癖のある馬を任され、その調教をつけるうちに技術がついてきた。うるさい馬は人が怪我するリスクがあるが、そういう馬の調教も誰かがやらなければならない。そんな馬に日々積極的に乗っている。
「乗り馬を集めるためにどんな馬でも乗らないといけないですから。必死でしたね。型にはまるまではだいぶ時間かかりましたけどね。今は、歩様の悪い馬とかうるさい馬とか色んな馬に乗れるのが自分の長所ですね」と胸を張る。
高畑騎手の赤一色の勝負服はレースでもより目を引くが、こんな誕生秘話がある。
デビュー前、「(師匠の平松師から)最初真っ白って言われたんですよ。でも真っ白はちょっと・・・と言ったら真っ赤になりました」。平松師が騎手時代に白と赤の縦縞の勝負服を着ていたことが由来だ。
一度、子供が生まれて高馬厩舎に移ったタイミングで勝負服を変えようと思ったそうだ。
「どうしようかなと、いざデザインを考えようと思ったら面倒くさいな、と。真っ赤だとアルペンとかスポーツ店行ったら売ってるしなぁって(笑)」
量販店に普通に売っている真っ赤な“服”? ジョークかと思ったら本当にレースで着ていたとか!?
「さすがに今は着てないですけど、お金がなかった時は2枚で2~3千円というのをアルペンで買って、それを着てレースに乗っていました。周りにはバレてましたけどね、『お前それ勝負服ちゃうやろ!』って(笑)。でも、意外とファンにはバレへんなぁと」
1着1万円以上する勝負服を我慢して、少しでも家族のため生活の足しへ。そんな苦労も乗り越えてきた。
愛する家族
結婚したのは、寺嶋厩舎に移ってすぐのこと。その馴れ初めはこうだ。
奥様の父は元上山競馬の騎手で、引退後は兵庫で厩務員として働いていた。三宅厩舎に所属していた頃、義父の担当馬に乗っているうちに「うちに飯食いに来いよ」と声を掛けられ、家に行くと将来妻となる女性がいたというわけだ。ただ「最初はお互いに一言も喋らなかったですね」。
他の色んな騎手も日替わりでご飯を食べに家を訪れていたというが、妻の高畑騎手に対する第一印象は「こんな喋らん人初めて見た」だったそうだ。
「昔は喋ってましたけど、その頃は押し潰されて自信が持てなかったんです。人と喋るのも怖かったくらいで。声もボソボソで小さかったですね。とにかく自信がなかったです」
「その携帯なに、ガラケーの機種?」と訊かれた高畑騎手が「ピー」と一言呟いた。奥様がよく覚えている高畑夫妻最初の会話だ。
そして、それからお互いに惹かれ合い2~3ヶ月も経たない内に交際が始まった。
「最初は内緒で付き合ってましたね。嫁さんの方が強いです、喧嘩したら100%負けます。163~4cmあるので取っ組み合いしたら投げられます(笑)」と尻に敷かれているようで、「はっきり喋れよ!」と言われて、ボソボソ声も付き合いだしてから変わっていった。
「今でこそ明るいとか言われますけどね、下からもイジられ上からもイジられ・・・このスタイルは奥さんに作りあげられました(笑)」
今はほかのジョッキーと出かけることもあまりなく、休みの日は専ら家族と出かける。仲が良い家族と評判だ。
高馬厩舎に移籍する直前に生まれた一人娘も小学2年になった。
いつも大好きなパパの騎乗を楽しみにレースを見ているそうだ。
「勝ったら『おめでと~』って来るけど、2着に負けて帰ってきた時は『あ~あまた2着』とか言われますよ。(笑) やっぱり子供の存在は大きいですね」
仕事の日は、毎日夜中の0時半から8時頃まで約20頭の調教に騎乗する。レースがある日はこのルーチンを終えた後、西脇から園田へと移動しての騎乗となるから体力的にも苛酷な仕事だ。
「嫁さんによく言われるんです、『こうやって仕事もらえるだけでもありがたいと思わなあかんで』と。『ネガティブなことを言いだしたら乗り鞍減るし、ケガするから』」 気持ちが落ちたり、しんどい時には戒める言葉もかけてくれる。
「奥様あっての今の自分なので」と照れを隠さず話してくれた。妻と娘、愛する家族が大きな支えになっている。
初めての弟弟子
今年4月に新人騎手4人がデビューしたが、そのうちの一人が高馬厩舎所属の土方颯太騎手だ。高畑騎手にとっては、初めての弟弟子となる。
「初めての弟弟子やしね、かわいいね。年が倍くらい違うからね」と目を細める一方で、「もっと頑張らなあかんなと思いますね。向こうは3kg減じゃないですか。乗り鞍とられるという不安は正直ありますね」と商売敵という側面もある。
「颯太、上手いしね。ビシッと決めて乗るし。最初は位置取りとか外回り過ぎたりとかあったけど、あまり言うことないかな」と実力を評価している。
とあるレース後、弟弟子とレースを振り返りながらの一コマ。
「もっと鞭叩いてたら勝てとったんちゃうかと颯太に言ったら、『僕は鞭に頼りたくないです』て言ったりね。自分は、寺嶋厩舎の時にスタートで鞭入れて引っかかってしまって・・・『1発2発多い、鞭に頼らずに拳で』というのは先生からも理さんからも言われましたね」
それをルーキーの段階で意識してしっかりやろうとしている弟弟子を見て、頼もしく感じている。
その土方騎手は5月末までに同期最多の8勝をマークし、順調に勝ち星を重ねていたが、「慣れてきたころに怪我するから気をつけろよと言ってたんですけどね」という兄弟子の心配が現実のものに。6月3日の調教中、馬に腹部を蹴られて負傷、長期入院を余儀なくされてしまった。
しかし、無事に退院を果たして7月末に調教に復帰、まもなくレースに戻ってくる見通しとなっている。
師弟コンビで一緒にレースに騎乗する姿がまたすぐに見られそうだ。
今後に向けて
高畑騎手の中で印象深い1頭が2020年に5連勝を記録したフミタツアーロンだ。JRA交流でも2着に好走した。11歳となった今年、姫路で9番人気ながらも勝利を収め、コンビを組んでこれまで9勝。思い出深い1頭となっている。
人気を集めた中での騎乗も多かったため、この馬からの学びは「プレッシャーの部分ですかね」と話した。
そして、もう1頭、2016年からコンビを組んで6勝を挙げたホーリーエンジェルにも感謝している。
「ホーリーエンジェルは、ゲート内での駐立、そしてゲートを出るタイミングの所ですね。掴まっただけの状態では出ないんですが、人間が出しに行く気持ちで出ればスパーッと出てくれるんです。この馬は結構勉強になりました」
今年はここまで6勝。(8/2現在)
「全然勝ってないですね」と苦笑いを見せたが、昨年5勝に終わったことを思えば、今年はそれを超え2年ぶりの年間二ケタも見えている状況だ。
「目標は、一度でいいから重賞は取ってみたいですね。そして、常に二ケタは勝ちたいですよね。今年は5,6月と勝てなかったので。どちらかというと夏場の方が得意なんですけどね。冬場は体が固まっちゃうので」
「周りから『いつ調教師になるんや?』とか言われますけどね。調教師になる気持ちはないですね。調教師への転身はあまり考えたことがないです。ただ、自分だったらこうやってみたいなという考えはありますけどね」
今年で38歳、加齢とともに共に少しずつ変化を感じている。
「サマー競馬の時なんかでも、以前は調教が終わってからそんなに寝ることなくレースに行けてたけど、今はやっぱり疲れが残っているなと感じますね。あとは、この前公園で子供に『バク転やって』と言われてやろうとした時に、気持ちにブレーキかかって『おいおいちょっと待ってよ』ってなりましたね。で、回ったら体が重かったね(苦笑)」
トランポリン選手だったからこそできるこのバク転、勝利騎手インタビューの時にぜひファンの前でも披露していただきたいものだが、このリクエストにも「練習しておきます」と力強く答えてくれた。これも目標の一つに加えてもらおう。
「ゴールデンウィークとか連休があると、親が見に来てくれるんですよ、福井から。騎手をやっている姿を見て、親が喜んでくれるんでね。迷惑ばっかりかけてきたので・・・。その昔はすぐにキレていました。喧嘩して警察沙汰とか当たり前で、親はよく包みを持って謝りに行ってました。今はこんなんですけど、小・中学の時は親を泣かせてました」
喧嘩とは無縁と思いきや、思春期はオラオラ系だったらしい。今の姿からは想像できない話だ。
10代後半はトランポリンで日本の頂を経験し、競馬界に入ってからは一転して自信を失った。人と喋らなくなるほど、自分を出せずに苦悩した時期があった。
しかし、奥様と出会い、娘が誕生し、大きく人生が開けた。暗くてふさぎ込みがちだったが、今はみんなから愛されるキャラクターへと進化した。
「冗談とかも普通に言えて、先生や厩務員もお互いに何でも言える厩舎がいい」という高畑騎手が理想とする厩舎像は、高馬先生が体現してくれている。
「やっと素の自分が出せる場ができた」と理想的な環境に身を置いている。
「今のスタイルが一番いいですね。色んな自分を経験した上で今の自分なので」
様々な苦境を乗り越えてきた男は逞しく、そして優しい。
家族の、そしてファンの期待を背負った深紅の勝負服は、これからも一層燃え続ける。
文:三宅きみひと
写真:斎藤寿一