騎手クローズアップ

60代も輝きを放ち続ける至高のレジェンド

~川原正一騎手~

現在、日本には60代で活躍する現役騎手が4人いる。(ばんえい競馬を除く)
大井の帝王と称される的場文男騎手(66歳)を最年長に、兵庫の川原正一騎手(64歳)、名古屋の丹羽克輝騎手(64歳)、浦和の内田利雄騎手(61歳)の4人だ。
騎手キャリアは約半世紀に及び、10代の騎手も多くいる中、孫ほどの年齢の若者と同じ舞台で戦い続けている猛者たち。

従来、日本の競馬における最高齢重賞勝利記録は、5年前、的場文男騎手が2018年の東京記念で記録した62歳0ヶ月12日だったが、これを川原正一騎手が塗り替えた。

8/10に行われた「兵庫ジュベナイルカップ」をマミエミモモタローで勝利し、自身約3年ぶりとなる重賞制覇。64歳4ヶ月27日での重賞勝利となり、的場騎手の国内最高齢重賞勝利記録を更新した。(さらに8/31の「兵庫若駒賞」も勝利し、同記録を64歳5ヶ月17日に更新)

今月のクローズアップでは、日本競馬界のレジェンド・川原正一騎手の胸の内に迫る。

国内最高齢重賞勝利

「まぁ良かったね」

大きな記録を作った重賞制覇の感想を伺うと、この一言が返ってきた。

64歳での重賞制覇、とてつもない大偉業なのだが、川原正一騎手本人は「あまり意識したことがなかった」と、すごいことをしたという感覚はないという。

川原騎手は常々「どんなレースでも勝ったら嬉しい。大きい所でも小さい所でも関係なく嬉しいよ」と話す。

「みんな勝ちたくて一所懸命仕事やってるでしょ、暑い中で。だからどんなレースでも勝ったら嬉しい」と、競馬で1つ勝つことの難しさを知っているからこそ、その1勝の重みを大事にしながらここまで地方通算5769勝(8/31現在)を積み上げてきた。

「年とかじゃなくて重賞勝ったということ自体が嬉しいからね。久しぶりだったしね。何でも勝ったら嬉しいんだけど、重賞は価値のあるレースだから、嬉しいことは嬉しいよね」と振り返った。

自分自身が最高齢記録を塗り替えたということよりも、馬を勝たせてあげるために関係者一丸となって努力してきたことが実を結んだという喜びの方が圧倒的に強いのだろう。

60代でも放つ輝き

笠松所属時代は安藤勝己騎手らと鎬を削りながら地方通算2856勝を挙げ、8度のリーディングジョッキーに輝いた。鳴り物入りで兵庫に移籍した2006年は、リーディング3位といきなり活躍を見せ、その後11年にわたってトップ3圏内の成績を残した。

「60代までやれると思ってなかったからね。前に所属してた曾和先生のところにお世話になっていて、先生が定年になって、そろそろ僕も調教師の準備をしないといけないかなと思った時期があってね。でもそこから勝ち鞍が伸びていったから。50歳過ぎたら成績落ちてくるじゃない、普通は。でも、曾和厩舎が解散した50代から伸びていったからね。成績が伸びている時に辞められないでしょ」

兵庫では年間200勝以上が5回。2013年は54歳で267勝、2015年は56歳で247勝を挙げ、2度のリーディングに輝いた。(2013年は全国リーディング)
2017,2018年と少しずつ成績は落ち始めるも年間100勝はキープしていたが、2019年は88勝に終わった。

それまで大きなケガはほとんどなかったという川原騎手だが、「60歳近くでケガをしてね。胸椎骨折、縦に3ヶ所割れていてね・・・あれからちょっとずつ成績落ちてきたよね。まぁ60歳で伸びる方がおかしいよ(笑)」 

胸椎骨折からわずか1ヶ月半ほどで戦列復帰、すごい回復力だ。
ケガをしたことで川原騎手自身の騎乗感覚が変わったわけではないというが、
「この年で休んじゃうと仕事もなくなるよ。60過ぎるとね・・・みんな元気な若い騎手に乗せたがるよね」と、療養中にお手馬が他の騎手へと移ってしまったことが勝利数にも大きく影響した。

60代も半ばに差し掛かろうとしているが、「感覚的なものは変わっていないし、そんなに自分が技術的に下手になったとは思っていない。やれる時はやれる、勝てる時は勝てると思ってるよ」とこれまで積み上げてきた技量でまだまだ戦える自信に揺るぎはない。

実は、60代になって変えたことがあるという。

「今は、朝の調教は少し多めにしているんだよね。レースに乗る数が少なくなった分、調教を多めにして体力を維持しようと思ってね。50代の頃はレースもたくさん乗っていた分、調教も乗ったら体がしんどいからね。騎手は結果を出すことが仕事だから、(50代の頃は)朝の調教は控えめにしてたね」

今は体力を維持するため、レースの乗り鞍が減った分を朝の調教に乗ることで補っているというのだ。そして、調教に乗っていればその関係者からレースでも声がかかり、騎乗のチャンスもおのずと増える。

「僕、64歳という感覚が自分でないんだよ。仕事はしんどいけどね、この夏場は特に。朝の調教もね、しんどいことはしんどいよ」と笑った。

一旦50代で減らした調教の頭数を60代でまた増やせるのは、本当にすごいことだ。人間は一度楽を覚えたら、簡単にそちらへ引きずり込まれてしまう。これは誰しも経験があるだろう。
しんどくてもプロの騎手として結果を残すために、60代でもう一度調教へ臨む姿勢を変える・・・日々自分と向き合い、地道な努力を続けているからこそ64歳の今も輝きは衰えないのだ。

「一所懸命にやっていたらチャンスは来るよ」

ありきたりの言葉に思えるが、騎手人生48年目の言葉には含蓄と重みがある。

愛馬マミエミモモタロー

マミエミモモタローには、園田競馬場の諏訪貴正厩舎に入厩してから毎日川原騎手が乗って調教をつけている。ただ、最初跨った時から特別な感触があったわけではないという。

「能力検査を受けた時は普通の馬だったね。そのあと、6/20の1400mの自主能検で1.35.4の時計が出たので、まずまずはやれるなと思った。併せ馬をした時に踏ん張るような姿勢を見せてもくれたので競り合いに強い気がした」

そして迎えた7/12の新馬戦。3000万円近い価格で購買されたベラジオケンシロウをはじめ将来楽しみな素質馬が揃った中で、1番人気の支持を受けた。

「それまであまり速い時計を出す調教もしていなかったし、新馬戦の時に初めて追い切りをかけたらまずまずかなって。新馬戦なんて分からないからね。ゲートにちゃんと入ってポンと出て1着に入ったから運がいいなと思ってね。そこそこやれるかなと。時計もそんな派手ではなかったしね」

新馬戦が終わった段階では、そこまで将来性抜群という感触ではなかったようだ。

2戦目は8/10の兵庫ジュベナイルカップ。
そこに向けての追い切りはレースのシミュレーションのような感じで3頭併せの後ろにつけて砂を被るような調教をした。

「砂を被っても嫌がるそぶりがなく本番でも大丈夫だろうと。初めて目一杯の調教をしたら結構いい時計が出て、2歳馬離れした動きしてたね。直線での瞬発力がある感じで、園田に向いているような走りしていたなと。良い動きをしたんで、(重賞で)勝ち負けよりどんな走りをするかという楽しみが大きかったね」

兵庫ジュベナイルカップに向けては、戦前こんなビジョンを描いていた。

「スタートセンスは良い。テンに行く(スタートダッシュ)というのは天性のものなんで、速い馬は勝手に行くからね。行こうと思ったら行けるけど、将来ある馬だから今後どんなレースでも対応できるようあえて控えて、次に繋がるレースをすればいいかなと。今回勝つとか負けるとかではなく学習させて、今後どんなレースでも対応できるようにしてやろう」とタイトルを絶対に取りに行く姿勢ではなく、あくまで馬の将来を考えたレースをしようと臨んだ一戦だった。

迎えたレースでは、スタートダッシュを決めながら行きたい馬を行かせて、スッと逃げ馬の真後ろへと川原騎手は誘導。シミュレーション通りの展開に持ち込んだ。

「3コーナー過ぎから前が壁になって行くところがなかったね。でも手応えは良かったから。逃げた下原君の馬(クラウドノイズ)が下がって、吉村君の馬(ハバナビーチ)の手応えが良かったからその後ろついていって。4コーナーは、前で3頭横に並んでいて、内と外の両方の選択肢があってどこを突こうかと思ったら内が開いたんでね。当日は内も使える馬場だったし」と、慌てることなく冷静に状況判断をしながら、想定通りのレースをして勝利に導いたのだからさすがの手腕だ。
調教で教えたことを実戦でしっかりと体現できるマミエミモモタローのレースセンスが光る一戦でもあった。

「普段も大人しいし、操縦性が良いよ。だからどんなレースでも対応できる馬だなと。今後もそういう風に育てていきたいね。将来が楽しみだね」

日々の楽しみ

川原騎手のプライベート、趣味について尋ねてみた。

「昔はゴルフも釣りもパチンコも色々やってたけど今は全部やめたね」

笠松時代の話。30歳を過ぎた頃、一度椎間板ヘルニアを発症して手術、2ヶ月近く休んだことがあったそうだ。
「少し腰が痛かったけど、『こんなもん大丈夫だわ』と思って朝の調教に乗ったら、馬から降りられなくって。痛くてビリビリっと痺れて体が動かなくなった。その時にたまたま名古屋の良いドクターと出会って、『腰の周りにいい筋肉つけなきゃダメだよ。腰に負担になることしたらダメだよ』と言われてね」

「ちょうどこれからという時だったのに、もう騎手を辞めないといけないかもしれない」とまで感じた椎間板ヘルニアを経て、自分の体との向き合い方が変わった。それを機にゴルフもパチンコもやめ、よくお風呂に行くようになった。

そして、30年が経過した今もほぼ毎日、体のケアの一環として源泉かけ流しの温泉施設に通っている。腰のケアのために電気風呂に入るなど、1時間~1時間半かけてゆっくりと浸かり、鍼灸院に行ってのケアも欠かさない。

「今の一番の楽しみは、レース終わってからビールを飲むことだね。缶ビールをグラスに移してね、最初の一杯は一気に4分の3くらいグイッとね。日本酒とかワインも好きだけど、翌朝の仕事に残っちゃうからビールしか飲まない。飲みすぎると良くないでしょ・・・まぁ缶ビール4本くらいかな。サマー競馬の時は飲み始めるのが遅いから3本にしてるよ(笑)」

楽しく乗って、ケガのない1日を過ごし、最後はビールで締める。これがレジェンド川原騎手、日々の楽しみだ。

騎手人生48年の歩み

「園田で騎手続けて、ある程度したら調教師にもなってね・・・という計画で来たんだけどね。未だに騎手やってんだからね(笑)」と目を細めた。

笠松でデビューしてから10年間で523勝。悪い数字ではないがトップの数字でもない。
「まずそんなに勝てるとは思ってもなかったね。デビューしてから乗り馬にも勝ち鞍にも恵まれなかったし、兄弟子もいたしね。でも、その中で『これで飯食っていこう』と自分で決めたからね。『決めた以上はやり切ろう、上を目指してやっていこう』という気持ちだけはあったね。気持ちは大事よ、みんなの信用とかもね。信用を一個一個積み上げていくのは大変だけど、崩れる時は一気だから」

一つずつ実績と信用を積み上げ、笠松のリーディングに君臨。
そんな中、笠松が生んだ名馬オグリキャップに端を発する競馬ブームが去り、各地の地方競馬場が廃止になる中、2005年に園田への移籍を決断した。

「それからずっとリーディング3位以内でやってたからね。田中学、木村健、下原理と争う中でリーディングを取れたしね。50代で全国リーディング取るなんてね、これからないと思うよ。
JRAにもたくさん遠征させてもらってね。ワールドスーパージョッキーズシリーズは笠松でも(1997年優勝)園田でも(2013年7位)出させてもらったからね。笠松でも2000勝、園田でも2000勝してね。数字的には結構いいもの残してる」とこれまでの輝かしい歩みを懐かしそうに振り返った。

ここまで地方通算5769勝(8/31現在)を積み上げてきた。6000勝という数字を出すと、「6000は無理でしょう。JRAを含めたら5800勝はしてるけどね(JRA73勝を加えると計5842勝)」と苦笑いしていた。

60代。肉体的に衰えていくのは人間である以上は仕方がない。それでも勝ち続けられる秘訣を訊くと、「無駄な動きをしないことでしょ。無駄なエネルギーを騎手が使ったら馬にも伝わるから、馬も無駄な動きをしちゃうし。馬とコミュニケーションをうまく取ってリズムを取って、それが一番でしょ」。

馬との折り合いを一番に考える、これはずっと変わらない川原騎手のスタイルだが、それが出来上がったのは30代後半だったという。それまでは何がいいのか何が悪いのか分からず試行錯誤だったそうだ。自分のスタイルを掴んだ頃から成績はおのずと伸びてきた。

「馬と折り合いをつけることが大事。だって馬が走るんだから、僕が走るわけじゃないんだから。うまくコントロールしながら、会話をしながらね。『まだ早いぞまだ早いぞ。少しずつギア入れてくか。よし最後だ!一気に行け!』そんな感じでね。その会話が騎手の動作に繋がるんだよね」

川原騎手のこれから…

60代で調教師になっても、稼働できる年数が限られることもあり調教師になることはもう考えていないという。

2学年上の的場文男騎手(大井)も66歳で未だ現役。その頑張っている姿に「刺激にはなるよ。名古屋の丹羽(克輝)くんもね、同期だから。彼も頑張ってるからね。会った時に『おお元気か!頑張ってるね!』って声かけあうくらいだけど。
みんなから『的場(文男)さんがやめるまでやめられんな』とかよく言われるけど、僕は的場さんへの意識はないよ。的場さんが目標じゃないからね。僕は自分自身が目標だから。一戦一戦を大事に乗ること、それが僕の目標だから」と話す。

「たくさん勝てるなら勝ちたいけどね。今は多くは望めないけど、たまには重賞勝ったりね。ちょっとずつ勝ち星加えてね。1番人気で勝つのも大変だけど、人気薄で勝てたら『競馬の神様が下りてきたんやな。1日1日ちゃんと乗っていたらそういうときもあるんやな』と、そう思うよ。僕は体が小さい分で減量の心配がないしね、それも大きいよ。そんなに大きなケガもしないでここまでやっている自分の体に感謝しなきゃだね」

体のケアを欠かさず、気持ちを切らさないように。真摯に競馬に向き合い続ける日々。

「今はまだもうちょっとやれると思っている。何歳でやめるとは決めてないよ、気持ちが切れたらやめるしかないけどね。もうちょっとやりたいね」

文:三宅きみひと 
写真:斎藤寿一   

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